ホーム > 信仰講話コンテンツ > 信仰講話目次 > 素朴な疑問

 | 素朴な疑問




(キリスト信仰における素朴な疑問について)



「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。」


 (ヨハネ伝 3章16節) 



神を信じるということは、どのようにして神に認められるのか?

神は地上からは見えないが何処におられるのか、神がおられるのを証明することはできるのか、天国はあるのか、どうしたらそれが確かめられるのか?

キリストは奇跡で病人を癒したというが、本当なのか、その事実をどうやって確認できるか?

キリストの信仰をすると聞くことにキリストは「人が自らの生命をその友のために捨てること。これより大いなる愛を誰ももたない」と最高に大きな愛を説いているが、自分の生命を捨てて、友を愛することの意味は何か。そのところで言われる真意は何だろうか?

この世は、可能ならば、名をあげて、名誉をあげ、立派になることが、この世の中の多くの人から認められ、褒められ、尊敬されることが大切のように感じるが、キリストの聖書を見ると、主に名もなく、病気で、弱いものをその信仰の主な対象にしているようだが、はたして、この世の名もなく、貧しいものを対象とした信仰が、そこにどんな意味合いがあるのだろうか、その本意は何か、自分の上に、それは、はたして役に立つのだろうか。

聖書とは、何か。私達に意味、意義があると聞くが、それは本当であり、真に役に立つものなのだろうか。聖書は、まことに真実で、真理の書なのだろうか?

人間が死ぬとどうなるのか。天国はある、神は天におられると聞くが、だれも地上で神を見た者がいないと言われるのに、はたして、天国はあり、神はいられるのか。キリストの神様を信じて、自分が死んだとき、自分は本当に天国に迎えられるのか。キリストの神様やキリストの天国は本当に存在するのだろうか。主キリストの神様を信じるものが、裏切られることなどは、本当にないのだろうか。

聖書に書かれている記事、たとえば神は万物を創造されたという記事と現代の科学による万物の起源の追求研究について、万物は神が創られたことなのか、それとも自然が創ったものなのか等についてどう理解すればいいのか?

 

 

 

 

神を信じるということは、どのようにして神に認められるのか?

 「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。」とキリストは言われました。

 キリストの神様を信じるとは、誰か他の人等に私はキリストを信じていますと言い、認めてもらう事というよりも、私自身が、我が神、主キリストを真実に信じる事であると思われます。我が神キリストを心から信じれば、主の言われたように、キリストを信じれば一人も滅びずして永遠の生命が神より与えられます。

 主キリストにバプテスマされるとは、本来は、水の洗礼を受けることではなく、生けるキリストにより聖霊にバプテスマ(浸される)されることであると思われます。神を信じるとは、キリストを自分が信じ、キリスト様を我が内に神の宮として迎え、我が神キリストを主と仰ぐ事であります。

 ヨハネは、キリストに言った「先生、わたしたちはあなたの名において悪霊を追い出している者を見ました、そして、彼をやめさせようとしました、彼はわたしたちに付いて来なかったからです。」しかしイエスは言った、「彼をやめさせるな。なぜならわたしの名のゆえに力ある業を行ない、そして速やかにわたしをののしる事が出来る者はひとりもいない。なぜなら、わたしたちに敵対しないものは、わたしたちの味方である。」と言われました。

 キリストの僕とは、その条件は、現実の社会に、世の中に存在するいろいろな既定のキリスト教団に入っている者のみという意味だけでなく、キリストに敵対しないもの、そして、本人が、純粋に、真実に、魂からキリストを信じる者の、その人でもあると信じます。その様に、主キリストを信じる者は、キリストの言われるように、その信じる者すべてが、永遠の生命を主なる神より与えられ、キリストの僕であり、キリストに、キリスト者として愛されるものだと信じます。

 

 

神は地上からは見えないが何処におられるのか、神がおられるのを証明することはできるのか、天国はあるのか、どうしたらそれが確かめられるのか?

 聖書に「いまだかって神を見た者はいません」(ヨハネの手紙1の4章12節)とあります。ということは、地上では神の存在を事実として、確認することは、不可能であるという事でしょうか。

 唯、私、そして私の知っている生けるキリストのキリスト者は、自分の願いを祈願として、キリスト御自身に祈り、多くのことが現在まで成就した体験をしています。もし、主なる神キリスト御自身が存在しなければ、いくらキリストに祈っても聞かれないはずなのに、聞かれその願いが成るという事は、イエス・キリスト様が天国に存在し、願いをかなえて下さるという事が事実信じられるし、それは真実だと実感します。

 また、旧約聖書時代アブラハムやモーセやユダヤの預言者達等が天の父なる神と出会ったり、神の言葉を示されたりしたことの場所の史跡もイスラエル等に残り、新約聖書の中やキリストが伝道した事のキリストやその弟子たちの活動した史跡が現にイスラエル等に存在しています。

 サンダーシングは、神を求めて、祈る中、生けるキリストにお出会いしたといいます。 また、私は、主キリストの恵みを頂き、子供の頃、夢で生けるキリスト御自身に出会い、慈しみに満ちた声をかけられた事があります。高校の頃には、アメリカ短期留学中に、夢で十字架のキリストを見ました。また、50代のはじめの頃、夢でキリストの神様にキリストの伝道方法について語られる事を示されました。

 この様なことも考えると、もしキリストが現在、存在しないのなら、夢にその霊姿を現すことなどないはずだと思われます。イエス・キリストは生けるキリストを信じるキリスト者の中にも存在し、そして、キリストが言われるように私たち主を信じる者の行く天国の場所を用意されますし、キリストのおられる天国も存在するでしょう。

 

 

キリストは奇跡で病人を癒したというが、本当なのか、その事実をどうやって確認できるか?

  福音書の中には、キリスト様が成した病の癒しの奇跡の記事が残されています。
私は、わが師の一人と信じているすでに召天された日本でキリストに召命を受けた伝道者のある先生を知っていますが、その方は、主なる神から聖霊を受け、主キリストに倣い、奇跡の病の癒しの力を与えられ、多くの難病の病人を癒されました。

 また、その方は、すでに現在は他界されましたが、知り合いの大学の先生の足の重病の病を、私の所属している生けるキリストの集会のキリスト者の仲間二人が、神に祈り、主キリストに病の癒やしに倣い、祈り、主による癒しの力を頂いて、神の深い愛の恵みにより、その方が癒されたのを見ています。また、我がキリスト者の兄弟の信仰と祈りにより、その兄弟の両親の重病も癒されました。姪の犬が重い病だったのにキリスト者の母ともう一人で、キリストの神様による祈りで癒されたのも体験しています。

 主なるキリストの神様に病の人が癒されるように祈り、キリスト様に倣い、成すことにより、病のものが癒されたとしたら、ある意味として、キリスト様には病人を癒す力がある事実を確認したことにもなるのではないでしょうか。 キリスト様は、まことに信じる者には、生けるキリストの信仰者を通し、病を癒されます。その癒やしの事実は、生けるキリストをまことに信じる者たちのまわりに現在も起こっています。

 キリスト様に倣い、祈り、神の恵みにより、人や動物が癒されたという事は、それも、生けるキリスト様には、まことに病の癒しのカリスマ力がある事の証明であり、それにより、キリスト様の成したと言われる聖書の病の癒しの記事も事実であると言えるのではないでしょうか。

 

 

キリストの信仰をすると聞くことにキリストは「人が自らの生命をその友のために捨てること。これより大いなる愛を誰ももたない」と最高に大きな愛を説いていますが、自分の生命を捨てて、友を愛することの意味とは何でしょう。そのところで言われる真意は何でしょうか?

 自分の生命は自分の親からもらったかけがえのない一生に一度の生命だと思いますがそれを自分の為に使うなら分かりますが、友の為にすてることが何故、最高に大きな愛になるのでしょうか。それは、無駄になるのではないでしょうか、意味が分からない人も多いかもしれません。 このキリストの言葉を理解するのには、その前に言われた事をかみしめる事が大切と思われます。

 『これらの事を話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされる為である。私があなたがたを愛した様に、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友の為に自分の生命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(新約聖書ヨハネ伝15章11~13節)

 この自分の生命を捨てるの生命は、ギリシャ語原文でプシュケーといい、地上の生命体、魂と言う意味で、自分の地上の生命を捨てるという意味です。これは、イエス・キリストが十字架にかかり、人類すべてを愛する神であるキリストを多くの人々が信じないこと、そして主なる神に反逆し神よりも自分の利や富を求めておこり来る人の死に値する罪を、神の子キリストの贖いの血で贖い、死を滅ぼし、復活され、キリストを信じる人を救われるキリストの愛からくる勧めであります。

 私達はそれをしようとしても出来そうにありません。しかし、私達もキリストに祈り、キリストの聖霊の愛を受け、主キリストに倣い、人々を愛し、キリストの愛にならうことは、真実に、力、喜びなどの感情のより強烈な強い神から来る愛なのかも知れません。ところで、キリスト者とはいえこれを実際に成そうとすることは事実普通の人間の身には難しいと感じます。

 だが、キリストに祈り聖霊の生命を受け、これをキリストにみ倣い少しでもたとえほんのちょっとでも成したい、努力したいと自分が真実に願う事、少しでもキリスト様の真実な強烈な強い深い慈愛に近づきたいと願い、地上にはなく、キリストの神様にしかない真実のまことの愛に近づきたいと願い、キリストに導かれて、成すことは、キリストを信じる人にとって、その人間にとって、本当に最大の幸福が来ると信じます。 「人が自らの生命をその友のために捨てること。これより大いなる愛を誰ももたない」というこの友の為に自分の肉体の生命を捨てるとは、たしかに、人間にとって、普通に聞くと、何か自分達とかけ離れたまるで違う話の様な感じもします。

 しかし、このことを、キリスト者としてキリストの神様に愛の生命を受ける願いを祈り、聖霊を受け、少しでもならい、したいと努力すること、そのキリストの姿に少しでも近づきたいと願いなすことは、キリスト者として、人間として、隣人を真に愛し、他のどんな世界にもない、キリストを信じる者が、自分自身をまことに愛のキリストに近づき、幸せなキリストの愛の生命の世界に入り、いまだかって肉の人間が誰一人として体験したことのない人として最高に、最大の幸せに生きることだろうと信じます。

 

 

この世は、可能ならば、名をあげて、名誉をあげ、立派になることが、この世の中の多くの人から認められ、褒められ、尊敬されることが大切のように感じるが、キリストの聖書を見ると、主に名もなく、病気で、弱いものをその信仰の主な対象にしているようだが、はたして、この世の名もなく、貧しいものを対象とした信仰が、そこにどんな意味合いがあるのだろうか、その本意は何か、自分の上に、それは、はたして役に立つのだろうか。

 (イエスは)弟子たちに言われた。「わたしについて来たいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、その時、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ伝16章24~27)

普通人は、学校で勉強をし、知識や生きるために知恵を学び、大人になり、学校を卒業し、会社に入り、家族を持ち、人生を生きます。そして、会社で仕事を覚え、知恵を得る努力をし、地位を得て、社会の中で、認められて生きられることを望み歩むと思います。そして、高齢になり、会社を退社し、老後の生活をし、人生の最後は、人の死が待っています。 確かに普通に人生を全うすることは大切なことであり、わたしは、その生き方を否定することはしません。しかし、もし、人の人生が、自分が地上に生まれてきて、生きて、最後は、死を迎えておしまいだけだったら、わたしは、人の本来の生きる意味・目的は果たせていないと感じます。
聖書に、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、その時、それぞれの行いに応じて報いるのである。」とありますように、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得もないのではないでしょうか?ここにあるように、この世の富、栄華を極めても、それを人は天国には持って行けなく、この世の富に価値観を置く生き方の終わりは、死でしかないでしょう。

イエスは、弟子たちに、「わたしについて来たいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを得る。」と言われました。ここに、人のもう一つの生き方、キリストを信じて生きる生き方が読み取れます。キリストは、愛の慈悲と聖霊の愛のたぎった方であり、人の魂の救い主であり、キリストを信じることを通してのみ、キリストは私達に永遠の生命を持つ約束をして下さり、幸せとまことの愛に満ちるキリストの天国に入る道が開かれます。たとえこの世の栄華を極めても人生の最後に死しかない生き方に対し、キリストを信じることにより、死を乗り越えて、永遠の幸せのキリストの天国に入れる道こそ人の本来の生き方、人の生きる本意ではないでしょうか。

そして、キリスト様は、力・権力のあるものや社会的地位・学問・家柄の良いもの、自分の力で強く社会を生きられるものよりも、優先して、かえって、社会の中で、いじめられ、苦しみ、地位の低い、力のない弱いものたち、社会で上手く生きられず、苦しみ悩み多きもの達、神に救いを求めなければ、生きがたい、社会の中で弱い立場のものを深く慈しみ愛して下さるお方だとも感じます。
それは、強く生きられるものは、助けなくても何とか生きていけるでしょうが、弱い立場の人は、キリストの助けが必要で、また、そういう弱い立場の人の方がキリストを深く求めやすいこともあるでしょう。弱肉強食の社会では、弱い立場のものは、キリストの助けが必要なのでしょう。


もし、自分が社会の中で困らずに生きて行けるとしても、この世の栄華のみに生き、その終わりは死でしかない人生は選ばず、キリストを信じ、永遠の生命を得て、キリストの天国に入れる人生を選ぶことこそ本当に自分の人生をまことに生きたものとすると感じます。
そういう生き方を選ぶことにより、キリストのまことの慈愛が望み、自分もキリストに似て、神の愛を受けて、まことに隣人を愛せる人になってくると信じます。社会の中で自分の力を得るために人の足を引いたり、人をだましたり、裏切ったり、殺したりすること、自分の力を得るためには、愚かにも、人を裏切ったり、おとし入れたりする様な悪い本来の人間の性質にあきらめて生きるのではなく、キリストを信じて生きて、キリストと共に、生きること、そして、自分はしっかり生きたとしても、弱い立場の人の気持ちも大切にして、深いキリストの真実の愛があふれる社会を作るために生きた方がどれほどまことに平安で幸せな人生を生きられるのではと感じます。

 


聖書とは、何か。私達に意味、意義があると聞くが、それは本当であり、真に役に立つものなのだろうか。聖書は、まことに真実で、真理の書なのだろうか?

 新約では、キリストや弟子達の神の真理の言葉等について、旧約では、アダムやアブラハムやモーセ、ダビデ、預言者などの言葉や真理の言葉、キリストを生み出したユダヤ人の歩み等について書かれてありますが、それが、文書の形で、まとめられたのは、うんと遅くで、ずっと後だと言われているそうです。また、新約で、主キリストについて書かれた福音書でも、各著者により同じ個所でも、違うことばや表現のように書かれている部分があります。また、いろいろなヵ所で、真理を説かれているが、他のヵ所では、それとまるで逆のことを言われているのではと感じると人の言うのを聞く場合があります。そういう意味で、一見聖書を読んでだぶん誰もが感じるかもしれない一つと思えるのは、はたして、その書かれていることは事実、真実なのか、間違って書かれていたり、事実と異なる部分がもしかしてあるのではないかということであり、そういう聖書は、本当に、事実、真実の書なのだろうかという疑問です。今まで、聖書やキリストのことを批判的にとらえてきた人達はそういうことなどを指摘してきたと聞いています。


しかし、私は、あえて、聖書をそのままにありのままにキリストの神の真理の書であると信じます。キリスト教国イギリスやアメリカ、そしてヨーロッパ、世界でキリストを信じる人がとても多いと聞きます。世界で、キリストから宗教や文化、歴史、生活に人類がいかに多くの影響を受けてきました。そして世界で、聖典である聖書により、全世界の人やその文化にどれほどの良い感化を成したと言えるかもしれません。
キリストを信じる私は、神から人に与えられ、神であり人でもある神の子キリストの愛と神のご性質を学ぶ書、聖典、信仰の手本として、おおかた、いやほぼすべてを神の真理、まことの書として信じ、受け入れて、自己流の間違った読み方でなく、私の信仰の師から学んだ聖書の読み方をもとに、工夫しつつ、聖書の水準まで信仰を高めようと努力をしたいと思っています。


聖書をある部分自分で批判的に疑って読むのも良いかもしれませんが、しかし、そういう読み方は、神からのバイブル、不朽の聖典であるものを、信頼し、そこから神のご性質を魂から受け取りたいというところをある部分、ある意味否定をして、信仰の手本の聖書から純粋な信仰を学ぶのを阻害するとも感じます。ですので私は聖書を神からのまことの信仰の書として信頼し、読み、学んで行きたいと希望し、歩んでいます。また、これらは、大切に思う信仰の師から学んだまことの聖書の読み方であると私は信じています。そのようにして、聖書から学び、願い、祈り、キリスト様のおかげで、いろいろな願いがかなったりしました。また、聖書を学び、キリスト様の癒やし方を倣い、その癒やし方をすると、もちろんキリストの神様が私を手足として使ってくれていて、私自身の力ではありませんが、キリストの中に成すと、キリスト様の導きで、小さな体験でありますが、ある病気の人が癒やされたことがあったり、家族の腹痛などが癒やされたりもしています。また、聖書を読むことを通して、人生を生きる上での、神の子としての自分のまことの生き方を学べ、日常生活での疑問、分からない問題に対するヒントや答えを導いてくれる書でもあります。それを見ると、聖書を大切にし、疑ってではなく、聖書をありのままに信じ、学び成すことも大切だとも感じます。


聖書は、救い主キリストについて書かれた書、そして、そのキリストを生んだ国や信仰の祖先たち、アブラハム、モーセ、ダビデなどや世界と創世についての見方など、キリストが生まれてくるまでの背景なども書かれている書でもあります。もちろん、神様についてのこと、神のご性質などを人が体験して書いたなどもあり、現代の科学でいってどうかと疑問に思うところもある場合もあるかもしれません。しかし、それにより、聖書自体を間違いがあると否定するのではなく、また、それをキリストの神のご性質について書いてある信仰の手本の書として学ぶときに自分を良い方向に変え、信仰をのばし、自分に大きな霊の能力を引き出す書でもあると信じます。私の信仰の師も言われましたが、キリストの信仰生活には祈るだけではなく、生けるキリストの聖書の信仰をお手本として、霊性を向上させ、魂を向上させ、キリストの弟子、しもべとして愛のわざを成していきたい、私は、そう信じ、取り組みたいと願っています。

 


人間が死ぬとどうなるのか。天国はある、神は天におられると聞くが、だれも地上で神を見た者がいないと言われるのに、はたして、天国はあり、神はいられるのか。キリストの神様を信じて、自分が死んだとき、自分は本当に天国に迎えられるのか。キリストの神様やキリストの天国は本当に存在するのだろうか。主キリストの神様を信じるものが、裏切られることなどは、本当にないのだろうか。

 「いまだかって神を見た者はいません」(ヨハネの手紙1の4章12節)とあります。普通、地上で生きる者は、地上の歩みを優先し、地上に見えない神様のことは、後でも良いと後回しとしてしまいます。これが、現在地上を生きる普通の人の感覚に近いのではないでしょうか?
しかし、私は、主の御心なら、願いを聞かれるキリストの神様を知っています。普通日本人では、新年に神社やお寺に今年一年の無事や恵みを願い、祈りに行く方もおられます。また、学校の受験に際し、受かる様に願いに行くこともあります。結婚式や葬儀でもキリスト教式や仏式ですることがあります。日本人も困ったときの神頼みといわれるように困ったときには神様にすがり、祈ることはあるでしょう。やはり、人間の自分以上の大きな存在の神様は、何となくいらっしゃるのではないかと感じている様ではないでしょうか。


ある人は、見えない神はどこにいるのかと、問う人がいます。しかし、生けるキリストの神様に、私は、願い、祈り、多くのことがかなえられたと確信し、信じています。大学卒業、IT資格や各資格取得、結婚、健康など数えたらきりがないほどに自分の願いをキリスト様に祈り、かなえられました。
もしキリストの神様に、願い、祈り、かなえられると言うことは、祈りをかなえる対象のキリストの神様がいらっしゃるから願いがかなうのではと信じます。


それに、私は、子供の頃、実際に夢で神の子であるキリスト様に出合い、だっこされて、日本語で言葉をかわした経験があります。神様は、見えなくても、存在し、キリスト者の私達の内側に住まい、慈しみ、愛し、主の御心ならば、願いを叶えて下さるでしょう。私にとってキリスト様は、遠いお方や見えないお方ではなく、我が親の様にいつも私を見守り、愛して下さるご愛の神様であります。
私達は、キリストの神様を信じることを敬遠するのではなく、魂から信じれることこそ、本当に、幸せな生涯が送れる人であると私は信じます。私は、皆様にも、キリストの神様を信じることのかけがえのない大きな幸せを得てもらいたいと願うものです。
何度も言いますが、キリストの神様に祈り、御心なら願いがかなうと言うことは、願いをかなえる神様という対象が存在するからでしょう。つまり、キリストの神様も天国も存在すると言うことでしょう。

 


聖書に書かれている記事、たとえば神は万物を創造されたという記事と現代の科学による万物の起源の追求研究について、万物は神が創られたことなのか、それとも自然が創ったものなのか等についてどう理解すればいいのか?

NEW  音声再生版はこちらをクリック

 この世の自然についての不思議ないろいろな事物についての原因や結果は科学的に多く、解明が進んでいます。はたして万物は神が創ったものかあるいはすべて自然が創ったものなのでしょうか。その真実はどうなのでしょうか。また、その聖書についてと科学をどう理解すればいいのでしょうか。

  現代の科学は医療においていろいろな不治の病と言われた病気を治すことに貢献してきました。また、日本人によるヒト人工多能性幹細胞(iPS細胞)の樹立の成功と技術や、人間の病気の治癒等に貢献する技術、ひとゲノムの解明等があります。また、家庭電気製品や携帯電話や光ファイバー等通信技術、宇宙開発、パソコンとパソコンソフトの開発や食品の冷凍食品や電子レンジなどの調理技術の開発があります。そして電車や自動車などの交通関連の技術の発達などにより人々の生活を便利に楽しくしてきました。

  しかし、その反面、他方で戦争時開発された原子爆弾を使用し、多くの人の生命を奪いました。地球温暖化などで地球環境悪化を及ぼしました。最近では日本での東日本大震災の原子力発電施設の放射能漏れなどで人間に対し多くの悪影響を及ぼす問題を起こしました。
科学は人間にとってとても役に立つ点と人間の生命を奪う等の様な悪い部分の両面があると思います。またそのように言うなれば科学技術は、人間を幸せにする目的のための技術として考えたいです。しかし人間自身が開発するものであるために、その目的を果たしえない部分があります。どうしても人類や自然環境にとっても悪影響をもたらしたり、不完全なものと言える点があると言えると思います。

  そのために現代の科学による万物の起源の追求について考えてみます。もしそれが科学的に解明されたとしたらどうでしょう。たぶん神の愛に生きない人間の中の一部の利己的な人達が、万物はすべて自然が作ったものであると主張するかもしれません。そしてその中にいる動物の中の知的生命を持った人間こそが万物の長、又、すべての被造物の長だと主張されるかもしれません。そして人間こそ、まことの神だと錯覚するかもしれません。その科学技術を使い、人類をまた広い宇宙におけるあらゆる自分たちの力の及ぶ可能な部分を私物化しないでしょうか。ある見解としてですが、戦争で原爆を使用して自分たちが有利となるためにか、容赦なく、人間を殺した実例があると言えるかもしれません。その様に、地球環境やまた、あるいは広く宇宙の環境を汚染し破壊することの危険性が増すととも感じます。

  新約聖書ヨハネ伝のはじめに、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずになったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とあります。
  私は、万物の起源は、この聖書の言うとおり、神ご自身のみだと信じます。 だから、人間がどんなに科学を追及して多くの科学者が研究に絶え間なくしても、その事物がどのようにして生まれ育ってきたかの流れは分かるかも知れません。しかしその万物の起源は、神ご自身のみであり、その森羅万象の起源は、どんなにしても解明は不可能だと信じます。


先程も言ったように、もしもそれが解明されたら、どうなるでしょう。人間が幸せになり、愛に溢れ、豊かになるのでしょうか。いや反対に一部の心無い科学者達等に、人間こそがまことの神であったとおごり、過信するのではないでしょうか。そしてそういう人たちが増えると人類や世界、地球などが滅ぼされる様な可能性もあるのではないでしょうか。私は今までの人類の歴史での人間の行動を見て振り返った上でその危険性を感じました。いちキリスト者として、人間や人類を深く愛する上で、私は、そういう可能性もあると信ぜざるをおえません。 科学も人間や世界を愛において幸せに豊かにするための進歩のみが人類の為 になる科学開発だと信じます。

  だから、私は、聖書に書かれている様に天の父なる神様は万物を創造されたと信じます。 その方が、人類や世界や地球や宇宙の為に幸せではなかろうかと感じます。 また、愛の神である生けるキリストの教えのポイントは何でしょうか。私達が主キリストに祈り、愛 の生命を与えて下さることを求めることではないでしょうか。そして主の教えをキリストの愛を受けながら、出来るだけ私達が聞いただけでなく、成すことです。それは自分や周りの者や社会をその最終的な結果としてまことに幸せにすると信じます。
しかし、もし、万物の起源が自然であった、いや、もしも、あらゆるものが科学で解明されたとしたらどうでしょう。私はそれでも、人間は神だなどと信じず、人間がおごらない心が大切と感じます。今までと同じく、キリストの神様は、神様自身において不可能なことは何一つない聖霊の愛の神様であります。また愛の奇跡の行える慈愛の神様という信仰を大切に、生きることが、大切です。それが人間における真実の幸せと祝福にとって変わりないと信じ、そのような未来が来ることを祈り、願います。



  イエス・キリストは、人や社会や世界を愛のキリストの神様の聖霊の愛で 愛すお方です。社会にはいろいろな意見や考え方もあります。私は聖書に書かれていることについて思います。ヨハネ伝10章35節にある通りキリストは「聖書は廃れることはありえない」と言われました。いろいろな説もあるかもしれませんが、聖書のいう神の義、それは、つまり神のご性質です。それはキリストの愛の真理の本質を伝えていることであります。私はその言葉一つ一つに大切な深い意味の隠されている真理、宝の言葉であると感じました。ところで聖書を読んでみました。それで現代の科学で考えてみると、少しおかしいのではと感じる箇所があるかも知れません。しかし、これは、人や社会や世界をキリストの神の深い慈愛で愛し、人をまことに幸せにし、神の愛に満ちた世界を作るその為に書いてある書として、理解することが大切です。そして出来るだけ、ポジティブに受け止めて、理解して行きたいです。何につけても生けるキリストから神の教えや神のご性質、この世のあらゆる問題や自分自身の問題等も含めて、あらゆる問題に対する答えを聖書や主より示されて、聞き、自分でも学び、知ることが大切だと信じます。

   万物の起源は、もしかすると、科学がいつかある部分を解明するかもしれません。しかし、存在するものが存在する起源、ありてあるものがあることの起源は、もし、仮の考え方が立てられたとしても、そのまことの真実は、決して人間には、ある意味人間のための利己的な部分であるとする場合の科学で見い出すことは不可能だと信じます。人間は神ではなく、人間は本来主なる神を信じ仰ぎ生きるときにまことの幸せが与えられ、そして、天の父なる神は、まことに存在すると信じます。

  しかし、現代は、科学が発展し、いろいろな点で、人間がかってなかったような奇跡的な医学の医術の発展などあります。科学が人類に大きな貢献をしてきている部分があると感じます。もしかすると多くの被造物、物質やその法則が科学でいつの日か解明される日が来るかもしれません。しかし、その自然や被造物におけるすべての法則を作ったのは神であると信じます。もしかするとすべての目に見えるものにおいての法則がいつの日か解明されるかもしれません。

  人間は地上界や人間自身の見えるものすべてを解明する時が来るかもしれません。しかし、地上界と天国の世界があると言われる様に、地上界のすべてが解明されたとしても見えない天上界、神の領域には侵しべからざる何かは分からないけど一線があるように感じます。もし人間界や目で見える宇宙のすべては解明されたとしても、現在存在している目に見えない神の天界とキリストの神ご自身の真理、神秘は、もし人間の力の可能なすべての力を出し切ってもすべてを解明することは不可能だと感じました。そこに神と人間との差があるように感じました。人間は主である天の父なる神を信じ、どんなに未来の時代にも神を信じ仰いで生きるのが、大切でしょう。私はキリストの神様のことを、生命であり、まことであり、道である、真実の幸せを生きるためのカギだと信じます。

  それでも神は愛であり、慈愛であり、私や私達の主であります。たぶん、どんなに科学が進んで将来の時代に、宇宙旅行が出来たり、宇宙の何処かに住めるようになったりするかもしれません。あるいは、タイムマシンの様なものが出来、未来へ行くことも出来る時代が来るかもしれません。ところでキリストの天国へ入る事や、神様に会う事の方法についてです。「わたしは道であり、真理であり、生命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない。(ヨハネ伝14章6節)とキリストの言われています。私たちがまことの幸せの待つキリストの天国へ入るためにはキリストの神様への信仰が必要条件であるだろうと信じます。復活されたキリスト様が召天される前に言われた言葉「信じてバプテスマを受ける者は救われるが信じないものは滅びの宣告を受ける」(マルコ伝16章16節)と言われたように生けるキリストを真に信じる恵みに与ると聖霊のバプテスマを与えられキリストを信じ救われるとあります。
どんなに肉の人間が科学を発展させても、もしすべての万物の起源を解明出来たとしても目に見えない世界へ、つまり、肉の人間の手を使いタイムマシンで、キリストの天国に行くことや神に会うことはほぼ不可能でしょう。

  キリストの神にあるまことの愛や平和や祝福、幸せは、どうしたら与えられるでしょうか。私たちは信仰の聖典である聖書などでキリストの言われるように、人がキリストの神を信仰することで与えられるでしょう。やはり、キリストの神様の存在は、いつの時代も今後から未来に至るまでどんなときも、私達への愛なる存在でしょう。そしてキリストの神様は私達の魂の父であり、まことの主としての存在でしょう。きっと、キリストの神様を魂からありのままに信じ生きることが大切でしょう。そうすれば私たちはいつの時代もどの様な時代も神の愛と祝福と恵みに満たされて生きていけるのだろうと信じます。



サイトについて    プライバシーポリシー    お問い合わせ

© 2013-2024 JeremiahnMoses