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| 素朴な疑問
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。」 (ヨハネ伝 3章16節) ○神を信じるということは、どのようにして神に認められるのか? 〇神は地上からは見えないが何処におられるのか、神がおられるのを証明することはできるのか、天国はあるのか、どうしたらそれが確かめられるのか? 〇キリストは奇跡で病人を癒したというが、本当なのか、その事実をどうやって確認できるか? 〇聖書とは、何か。私達に意味、意義があると聞くが、それは本当であり、真に役に立つものなのだろうか。聖書は、まことに真実で、真理の書なのだろうか?
○神を信じるということは、どのようにして神に認められるのか? 音声再生版はこちらをクリック 「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。」とキリストは言われました。 キリストの神様を信じるとは、誰か他の人等に私はキリストを信じていますと言い、認めてもらう事というよりも、私自身が、我が神、主キリストを真実に信じる事であると思われます。我が神キリストを心から信じれば、主の言われたように、キリストを信じれば一人も滅びずして永遠の生命が神より与えられます。 主キリストにバプテスマされるとは、本来は、水の洗礼を受けることではなく、生けるキリストにより聖霊にバプテスマ(浸される)されることであると思われます。神を信じるとは、キリストを自分が信じ、キリスト様を我が内に神の宮として迎え、我が神キリストを主と仰ぐ事であります。 ヨハネは、キリストに言った「先生、わたしたちはあなたの名において悪霊を追い出している者を見ました、そして、彼をやめさせようとしました、彼はわたしたちに付いて来なかったからです。」しかしイエスは言った、「彼をやめさせるな。なぜならわたしの名のゆえに力ある業を行ない、そして速やかにわたしをののしる事が出来る者はひとりもいない。なぜなら、わたしたちに敵対しないものは、わたしたちの味方である。」と言われました。 キリストの僕とは、その条件は、現実の社会に、世の中に存在するいろいろな既定のキリスト教団に入っている者のみという意味だけでなく、キリストに敵対しないもの、そして、本人が、純粋に、真実に、魂からキリストを信じる者の、その人でもあると信じます。その様に、主キリストを信じる者は、キリストの言われるように、その信じる者すべてが、永遠の生命を主なる神より与えられ、キリストの僕であり、キリストに、キリスト者として愛されるものだと信じます。
〇神は地上からは見えないが何処におられるのか、神がおられるのを証明することはできるのか、天国はあるのか、どうしたらそれが確かめられるのか? 音声再生版はこちらをクリック 聖書に「いまだかって神を見た者はいません」(ヨハネの手紙1の4章12節)とあります。ということは、地上では神の存在を事実として、確認することは、不可能であるという事でしょうか。 唯、私、そして私の知っている生けるキリストのキリスト者は、自分の願いを祈願として、キリスト御自身に祈り、多くのことが現在まで成就した体験をしています。もし、主なる神キリスト御自身が存在しなければ、いくらキリストに祈っても聞かれないはずなのに、聞かれその願いが成るという事は、イエス・キリスト様が天国に存在し、願いをかなえて下さるという事が事実信じられるし、それは真実だと実感します。 また、旧約聖書時代アブラハムやモーセやユダヤの預言者達等が天の父なる神と出会ったり、神の言葉を示されたりしたことの場所の史跡もイスラエル等に残り、新約聖書の中やキリストが伝道した事のキリストやその弟子たちの活動した史跡が現にイスラエル等に存在しています。 サンダーシングは、神を求めて、祈る中、生けるキリストにお出会いしたといいます。 また、私は、主キリストの恵みを頂き、子供の頃、夢で生けるキリスト御自身に出会い、慈しみに満ちた声をかけられた事があります。高校の頃には、アメリカ短期留学中に、夢で十字架のキリストを見ました。また、50代のはじめの頃、夢でキリストの神様にキリストの伝道方法について語られる事を示されました。 この様なことも考えると、もしキリストが現在、存在しないのなら、夢にその霊姿を現すことなどないはずだと思われます。イエス・キリストは生けるキリストを信じるキリスト者の中にも存在し、そして、キリストが言われるように私たち主を信じる者の行く天国の場所を用意されますし、キリストのおられる天国も存在するでしょう。
〇キリストは奇跡で病人を癒したというが、本当なのか、その事実をどうやって確認できるか? 音声再生版はこちらをクリック 福音書の中には、キリスト様が成した病の癒しの奇跡の記事が残されています。 また、その方は、すでに現在は他界されましたが、知り合いの大学の先生の足の重病の病を、私の所属している生けるキリストの集会のキリスト者の仲間二人が、神に祈り、主キリストに病の癒やしに倣い、祈り、主による癒しの力を頂いて、神の深い愛の恵みにより、その方が癒されたのを見ています。また、我がキリスト者の兄弟の信仰と祈りにより、その兄弟の両親の重病も癒されました。姪の犬が重い病だったのにキリスト者の母ともう一人で、キリストの神様による祈りで癒されたのも体験しています。 主なるキリストの神様に病の人が癒されるように祈り、キリスト様に倣い、成すことにより、病のものが癒されたとしたら、ある意味として、キリスト様には病人を癒す力がある事実を確認したことにもなるのではないでしょうか。 キリスト様は、まことに信じる者には、生けるキリストの信仰者を通し、病を癒されます。その癒やしの事実は、生けるキリストをまことに信じる者たちのまわりに現在も起こっています。 キリスト様に倣い、祈り、神の恵みにより、人や動物が癒されたという事は、それも、生けるキリスト様には、まことに病の癒しのカリスマ力がある事の証明であり、それにより、キリスト様の成したと言われる聖書の病の癒しの記事も事実であると言えるのではないでしょうか。
〇キリストの信仰をすると聞くことにキリストは「人が自らの生命をその友のために捨てること。これより大いなる愛を誰ももたない」と最高に大きな愛を説いていますが、自分の生命を捨てて、友を愛することの意味とは何でしょう。そのところで言われる真意は何でしょうか? 音声再生版はこちらをクリック 自分の生命は自分の親からもらったかけがえのない一生に一度の生命だと思いますがそれを自分の為に使うなら分かりますが、友の為にすてることが何故、最高に大きな愛になるのでしょうか。それは、無駄になるのではないでしょうか、意味が分からない人も多いかもしれません。 このキリストの言葉を理解するのには、その前に言われた事をかみしめる事が大切と思われます。 『これらの事を話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされる為である。私があなたがたを愛した様に、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友の為に自分の生命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(新約聖書ヨハネ伝15章11~13節) この自分の生命を捨てるの生命は、ギリシャ語原文でプシュケーといい、地上の生命体、魂と言う意味で、自分の地上の生命を捨てるという意味です。これは、イエス・キリストが十字架にかかり、人類すべてを愛する神であるキリストを多くの人々が信じないこと、そして主なる神に反逆し神よりも自分の利や富を求めておこり来る人の死に値する罪を、神の子キリストの贖いの血で贖い、死を滅ぼし、復活され、キリストを信じる人を救われるキリストの愛からくる勧めであります。 私達はそれをしようとしても出来そうにありません。しかし、私達もキリストに祈り、キリストの聖霊の愛を受け、主キリストに倣い、人々を愛し、キリストの愛にならうことは、真実に、力、喜びなどの感情のより強烈な強い神から来る愛なのかも知れません。ところで、キリスト者とはいえこれを実際に成そうとすることは事実普通の人間の身には難しいと感じます。 だが、キリストに祈り聖霊の生命を受け、これをキリストにみ倣い少しでもたとえほんのちょっとでも成したい、努力したいと自分が真実に願う事、少しでもキリスト様の真実な強烈な強い深い慈愛に近づきたいと願い、地上にはなく、キリストの神様にしかない真実のまことの愛に近づきたいと願い、キリストに導かれて、成すことは、キリストを信じる人にとって、その人間にとって、本当に最大の幸福が来ると信じます。 「人が自らの生命をその友のために捨てること。これより大いなる愛を誰ももたない」というこの友の為に自分の肉体の生命を捨てるとは、たしかに、人間にとって、普通に聞くと、何か自分達とかけ離れたまるで違う話の様な感じもします。 しかし、このことを、キリスト者としてキリストの神様に愛の生命を受ける願いを祈り、聖霊を受け、少しでもならい、したいと努力すること、そのキリストの姿に少しでも近づきたいと願いなすことは、キリスト者として、人間として、隣人を真に愛し、他のどんな世界にもない、キリストを信じる者が、自分自身をまことに愛のキリストに近づき、幸せなキリストの愛の生命の世界に入り、いまだかって肉の人間が誰一人として体験したことのない人として最高に、最大の幸せに生きることだろうと信じます。
〇この世は、可能ならば、名をあげて、名誉をあげ、立派になることが、この世の中の多くの人から認められ、褒められ、尊敬されることが大切のように感じるが、キリストの聖書を見ると、主に名もなく、病気で、弱いものをその信仰の主な対象にしているようだが、はたして、この世の名もなく、貧しいものを対象とした信仰が、そこにどんな意味合いがあるのだろうか、その本意は何か、自分の上に、それは、はたして役に立つのだろうか。 音声再生版はこちらをクリック (イエスは)弟子たちに言われた。「わたしについて来たいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、その時、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ伝16章24~27)
〇聖書とは、何か。私達に意味、意義があると聞くが、それは本当であり、真に役に立つものなのだろうか。聖書は、まことに真実で、真理の書なのだろうか? 音声再生版はこちらをクリック 新約では、キリストや弟子達の神の真理の言葉等について、旧約では、アダムやアブラハムやモーセ、ダビデ、預言者などの言葉や真理の言葉、キリストを生み出したユダヤ人の歩み等について書かれてありますが、それが、文書の形で、まとめられたのは、うんと遅くで、ずっと後だと言われているそうです。また、新約で、主キリストについて書かれた福音書でも、各著者により同じ個所でも、違うことばや表現のように書かれている部分があります。また、いろいろなヵ所で、真理を説かれているが、他のヵ所では、それとまるで逆のことを言われているのではと感じると人の言うのを聞く場合があります。そういう意味で、一見聖書を読んでだぶん誰もが感じるかもしれない一つと思えるのは、はたして、その書かれていることは事実、真実なのか、間違って書かれていたり、事実と異なる部分がもしかしてあるのではないかということであり、そういう聖書は、本当に、事実、真実の書なのだろうかという疑問です。今まで、聖書やキリストのことを批判的にとらえてきた人達はそういうことなどを指摘してきたと聞いています。
〇人間が死ぬとどうなるのか。天国はある、神は天におられると聞くが、だれも地上で神を見た者がいないと言われるのに、はたして、天国はあり、神はいられるのか。キリストの神様を信じて、自分が死んだとき、自分は本当に天国に迎えられるのか。キリストの神様やキリストの天国は本当に存在するのだろうか。主キリストの神様を信じるものが、裏切られることなどは、本当にないのだろうか。 音声再生版はこちらをクリック 「いまだかって神を見た者はいません」(ヨハネの手紙1の4章12節)とあります。普通、地上で生きる者は、地上の歩みを優先し、地上に見えない神様のことは、後でも良いと後回しとしてしまいます。これが、現在地上を生きる普通の人の感覚に近いのではないでしょうか?
〇聖書に書かれている記事、たとえば神は万物を創造されたという記事と現代の科学による万物の起源の追求研究について、万物は神が創られたことなのか、それとも自然が創ったものなのか等についてどう理解すればいいのか? NEW 音声再生版はこちらをクリック この世の自然についての不思議ないろいろな事物についての原因や結果は科学的に多く、解明が進んでいます。はたして万物は神が創ったものかあるいはすべて自然が創ったものなのでしょうか。その真実はどうなのでしょうか。また、その聖書についてと科学をどう理解すればいいのでしょうか。
イエス・キリストは、人や社会や世界を愛のキリストの神様の聖霊の愛で 愛すお方です。社会にはいろいろな意見や考え方もあります。私は聖書に書かれていることについて思います。ヨハネ伝10章35節にある通りキリストは「聖書は廃れることはありえない」と言われました。いろいろな説もあるかもしれませんが、聖書のいう神の義、それは、つまり神のご性質です。それはキリストの愛の真理の本質を伝えていることであります。私はその言葉一つ一つに大切な深い意味の隠されている真理、宝の言葉であると感じました。ところで聖書を読んでみました。それで現代の科学で考えてみると、少しおかしいのではと感じる箇所があるかも知れません。しかし、これは、人や社会や世界をキリストの神の深い慈愛で愛し、人をまことに幸せにし、神の愛に満ちた世界を作るその為に書いてある書として、理解することが大切です。そして出来るだけ、ポジティブに受け止めて、理解して行きたいです。何につけても生けるキリストから神の教えや神のご性質、この世のあらゆる問題や自分自身の問題等も含めて、あらゆる問題に対する答えを聖書や主より示されて、聞き、自分でも学び、知ることが大切だと信じます。 万物の起源は、もしかすると、科学がいつかある部分を解明するかもしれません。しかし、存在するものが存在する起源、ありてあるものがあることの起源は、もし、仮の考え方が立てられたとしても、そのまことの真実は、決して人間には、ある意味人間のための利己的な部分であるとする場合の科学で見い出すことは不可能だと信じます。人間は神ではなく、人間は本来主なる神を信じ仰ぎ生きるときにまことの幸せが与えられ、そして、天の父なる神は、まことに存在すると信じます。 しかし、現代は、科学が発展し、いろいろな点で、人間がかってなかったような奇跡的な医学の医術の発展などあります。科学が人類に大きな貢献をしてきている部分があると感じます。もしかすると多くの被造物、物質やその法則が科学でいつの日か解明される日が来るかもしれません。しかし、その自然や被造物におけるすべての法則を作ったのは神であると信じます。もしかするとすべての目に見えるものにおいての法則がいつの日か解明されるかもしれません。 人間は地上界や人間自身の見えるものすべてを解明する時が来るかもしれません。しかし、地上界と天国の世界があると言われる様に、地上界のすべてが解明されたとしても見えない天上界、神の領域には侵しべからざる何かは分からないけど一線があるように感じます。もし人間界や目で見える宇宙のすべては解明されたとしても、現在存在している目に見えない神の天界とキリストの神ご自身の真理、神秘は、もし人間の力の可能なすべての力を出し切ってもすべてを解明することは不可能だと感じました。そこに神と人間との差があるように感じました。人間は主である天の父なる神を信じ、どんなに未来の時代にも神を信じ仰いで生きるのが、大切でしょう。私はキリストの神様のことを、生命であり、まことであり、道である、真実の幸せを生きるためのカギだと信じます。 それでも神は愛であり、慈愛であり、私や私達の主であります。たぶん、どんなに科学が進んで将来の時代に、宇宙旅行が出来たり、宇宙の何処かに住めるようになったりするかもしれません。あるいは、タイムマシンの様なものが出来、未来へ行くことも出来る時代が来るかもしれません。ところでキリストの天国へ入る事や、神様に会う事の方法についてです。「わたしは道であり、真理であり、生命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない。(ヨハネ伝14章6節)とキリストの言われています。私たちがまことの幸せの待つキリストの天国へ入るためにはキリストの神様への信仰が必要条件であるだろうと信じます。復活されたキリスト様が召天される前に言われた言葉「信じてバプテスマを受ける者は救われるが信じないものは滅びの宣告を受ける」(マルコ伝16章16節)と言われたように生けるキリストを真に信じる恵みに与ると聖霊のバプテスマを与えられキリストを信じ救われるとあります。 キリストの神にあるまことの愛や平和や祝福、幸せは、どうしたら与えられるでしょうか。私たちは信仰の聖典である聖書などでキリストの言われるように、人がキリストの神を信仰することで与えられるでしょう。やはり、キリストの神様の存在は、いつの時代も今後から未来に至るまでどんなときも、私達への愛なる存在でしょう。そしてキリストの神様は私達の魂の父であり、まことの主としての存在でしょう。きっと、キリストの神様を魂からありのままに信じ生きることが大切でしょう。そうすれば私たちはいつの時代もどの様な時代も神の愛と祝福と恵みに満たされて生きていけるのだろうと信じます。 |
