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生けるキリストの神の義の研究

神の信仰の真理・ご性質の研究!
生けるキリストの信仰の”神の義”を学ぶことを通し、自分の利己的なふり、演技の為ではなく、主の教えのことばの学びや聖書講話の学びと共に、神の義に入れられたら入りたいです。まことの神の義・神のご性質を学び、自分の信仰の非を正し、私達の自分自身の中の神の愛のご性質の成長の為に共に少しずつでも学んでい きたいです。
聖書のことば
聖霊
読み方 ギリシャ語 英語
プネウマティ アギオ 〔the〕Holy Spirit
 
ことばの意味
創造者なる神の霊,現臨して働きかける神である,
(マタイ伝28の19 父と子と聖霊)の聖霊
聖書の引用箇所
マタイ伝3章11節
神のご性質のイメージ等
2016年1月18日

「その方(キリスト)は、聖霊と火であなた達にバプテスマをお授けになる。」 (マタイ伝3章11節)

「彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなた方に命じておいたことすべてを守るように教えなさい。」 (マタイ伝28章19節-20節)

生けるキリストの信仰をして、感じることは、聖書にもあるように聖霊が身近に感じられることです。 キリスト様はいつも求めるものに聖霊と生命を与えよう、恵もうとされておられます。

聖霊とは聖なるという字と霊 という字で出来ておりますが、この霊(プネウマ)という字の意味は、風、(口、鼻の)息、(肉体を生かしている) 霊、神の霊などです。 天地創造の時に、「主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、 その鼻にいのちの息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)とあります。 主なる神が、土の塵の人の、その鼻にいのちの息を吹き入れられたことで人が生きるものとなったとありますが、神の いのちの息、いのちの霊は、いのちのないものに新たに生きることを与える不思議な驚くべき力があると信じます。

そして主なる神とキリストが永遠の生命の源 であり、聖なる霊、聖霊は、私達が生けるキリストの神を信じることを通して、そのすべてをつくり、主の御心によりすべての良き願いをかなえ、すべてを成すことの できるものだと信じます。そして、この聖霊は、キリスト者に対し、恵みと祝福の源であると感じます。

  年  月  日
 
聖書のことば
証し
読み方 ギリシャ語 英語
マルトゥレオー マルトゥレオー to bear witness , give testimony
 
ことばの意味
(見,聞き,経験したことを)証言する , 証しする
聖書の引用箇所
ヨハネ伝18章37節
神のご性質のイメージ等
2015年9月17日

「あなたたちは聖書の中に永遠の生命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書は私について証しをするものだ。」 (ヨハネ伝5章39節)

「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。」 (ヨハネ伝18章37節)

エクレシアでキリストの信仰をしていると信仰の証しをクリスチャンがすることがあります。日々の生活の中で 祈りの生活をしつつ、生けるキリストに導かれたことや、恵みを頂いたことなどを聖徒同士で共有し神に感謝しつつ歩んでいます。

さて、キリストの真理の証しについて学び、思うときに大切と感じるポイントがあります。
この箇所でいう聖書とは旧約聖書であります。詳細に聖書の文字をしらべて永遠の生命を獲得せんとすることは 大きな誤りです。
そうではなく、聖書によってキリストを知るに至る事が聖書の目的であります。我ら聖書によりて キリストを発見し信仰をもって彼に来ったならばキリストより永遠の生命を頂けるでありましょう。

聖書をただの単なる書物として扱い、その文字をいくら研究したり、その書物の文字から学ぼうとしてもそれはただの 文字いじりにしかすぎないでしょう。聖書の中のことばを通し、その内容を生けるキリストに結び付けて、生けるキリストと霊で交わり、生けるキリストに霊で感じ、聞き、キリストに 来って、キリストの神の義を学び、生けるキリストご自身に、 キリストを信じることを通してこそ、キリストの神のご性質を、キリストの真理の証しのことばを、キリストのまことの声を学ぶ ことが出来るのでしょう。キリストの神のご性質はキリストの神の愛であり、主を信じるものにとって 大いなる賜物であり恵みと慰めのことばでありましょう。

  年  月  日
 
聖書のことば
贖い
読み方 ギリシャ語 英語
アポルトローシス アポルトローシス deliverance
 
ことばの意味
【代価を払って買い上げる】    贖い(あがない)[の主]
聖書の引用箇所
エフェソの信徒への手紙1章14節
神のご性質のイメージ等
2015年8月23日

『この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは、贖われて 神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。』(エフェソ1・14)

この聖書の箇所は、キリストの神の(聖霊の愛の) 中に生きるキリストを信じるすべての信徒が贖われるために、聖霊にあって印せられるという意味であります。ユダヤ人の戒めには、罪により血を流して起こした罪は、 同じく血を流してつぐない贖われなくてはその罪の贖いはないと聞いたことがあります。イエス・キリストは、 私たちの神に背き、血を流すようなどうにもならない罪を、贖いの十字架により、キリストの己が血を流し贖罪の死により、屠り、贖い、復活し、そして、私たちも、同時にキリストにより十字架上で、キリストと共に、屠られ、 キリストと共にあって罪が贖われ、許され、復活して、救われるのです。そして、キリストをまことに信じるキリスト者は、神へ反抗していた神への罪が許され、 神との和解がなり、祝福された人生が始まるのです。罪のないキリストは、肉の身の罪ある私たちの為に、今もキリストの身に流れる神の御血潮と 生命を、受けよ、贖われよ!と、手を広げて迎えていて下さります。キリストの御血潮と生命が注がれる神の子はまことに祝福を受け、幸せだと信じます。

  年  月  日
 
聖書のことば
読み方 ギリシャ語 英語
アガぺー アガぺー love
 
ことばの意味
愛, 愛情, 好意
聖書の引用箇所
ヨハネ伝15章13節
神のご性質のイメージ等
2015年7月17日

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために 自分の生命を捨てること、これ以上大きなはない。」(ヨハネ15章12節~13節)

キリスト様の愛は神のアガペーの愛です。人間の持てる肉の愛も尊いかもしれませんが、肉の人間にはない 深い憐れみの無償の愛、見返りを求めない、神の慈愛です。人間は、本来自分への愛、自己愛は持てても、隣人を 神の生命を受けて愛する愛を真実から求める意味・価値をなかなか発見できないかもしれません。しかし、神の独り子であり、 人間でもあったキリスト様は、人間でもありながら、神のまことの愛を知り、人々に、肉である人間の罪に対し、自分が十字架にかかり自分の生命を犠牲にしてまでも キリストを信じる者に、肉の人間の罪をあがない、赦し、神と和解させ、神のまことの慈愛を流され、愛されました。 私たちもキリスト様に倣い、「私が愛したように互いに愛し合いなさい」というキリスト様の掟を、キリスト様の生命を 頂きながら、互いに兄弟愛し合う中に生きると、神の愛のご支配、神の愛の生命はすでに私たちの中に入ってくると 感じます。そして、私たち人間の最大の夢、目標でもある、キリストの生命を受けながら、「友のために自分の生命を 捨てること、これ以上大きな愛はない。」という、生けるキリスト様の恵みである、まことの神の愛を受けながらこそ出来る、キリスト様の言葉の、 『(神の愛の中にある)これ以上ない大きな愛』に生かされ、神の子として生涯の間になんとか成していきたいという希望が湧きます。

  年  月  日
 
聖書のことば
恵み
読み方 ギリシャ語 英語
カリス カリス grace
 
ことばの意味
(神が[肉の身なる人間の{私訳}]罪人に賜う)愛情、好意、恩寵
聖書の引用箇所
ヨハネ伝1章17節
神のご性質のイメージ等
2015年6月21日

『ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『私の後から来られる方は、 私より優れている。私よりも先におられたからである。」と私が言ったのは、この方のことである。」私達は皆、この方の 満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理は イエス・キリストを通して現れたからである。いまだかって、神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、 この方が神を示されたのである。』(ヨハネ伝1・15~18)

キリストの神様の中に信仰をして、愛なるキリストを仰ぎながら、祈りをささげていると、神の愛の生命と、喜びが流れてくることを体験することがあります。神は、純粋に、神に全託して、まかせて、信仰生活をしているもののそばに来たって、その人の願いの祈りを聞くことを恵みを持って成してくださいます。キリストは、神でありながら、地上に人の形を持って現れてくださりました。

地上では、何においても、他のものを追い越すために競争があります。ある人は、自分のみが利を得、人を窮地に追い込み苦しめても、当然のようにして自分の安泰と繁栄のみに生きる人が世の中にいます。そういう人は、自分のみは喜んで生きているのかもしれません。しかし、キリストご自身の持てる愛は、自分の生命を犠牲にして、他の人に生命と愛を与え、愛の生命の恵みを与えれるお方です。弱い、地上を、一日も生きられないような者や世の人から捨てられて、顧みられることがない様なもの、人から相手にされず、この世では苦しみ嘆きをかかえている様な弱い者達で、神に頼りすがるしかないような者たちを心から深く愛されるのが生けるキリスト様ご自身その方です。

この世で何でも与えられて、食べるもの、衣食住に満たされて、何も不自由を感じないような人は、そして、与えられるものを自分の利己のためにしか使うことしか分からなく、人を虐げることをしても何も感じない人には、何においても自分が神の愛の真理と真実には、満たされず、何か、神様にこそ、最後の救いを求め願う様な気持ちはなかなかその価値が分からず、キリストの真実の幸せ、神の愛の生命を頂いて、自分を犠牲にしてでも、友のために、祈り、愛すことの喜び、そこに来るキリストのまことの愛の生命と喜びに生きることは難しいでしょう。

神を信じて、生けるキリストの中に生きる者は、神が、肉の身なる人間の罪人に賜うまことの神の愛情、好意、恩寵を、キリストを信じる私達は、自分の生命を犠牲にして、他の人に生命と愛を与え、愛の生命の恵みを与えれるキリストに倣うことを恵みの中に与えられて、キリストからの愛の生命を受けて、主キリストの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けて、与えられる幸せと恵みを感じて生きることが出来るのでしょう。

  年  月  日
 
聖書のことば
キリスト
読み方 ギリシャ語 英語
クリストス the Messiah
 
ことばの意味
油注がれた、受膏者、メシア
聖書の引用箇所
マタイ伝16章16節
神のご性質のイメージ等
2015年5月13日

すなわちシモンペテロ答えていえり、汝はキリスト、生ける神の子におわす(マタイ16章16節 新契約聖書)。そのとき彼(イエス)は弟子たちに、彼のイエスすなわちキリストにおわすことを誰にも言うことなかれ、と言い含め給いたり(マタイ16章20節 新契約聖書)。

『キリスト』の言葉の意味は、「油注がれた」という意味です。キリストは、神の聖霊の油が注がれた方であり、生ける神の子、生けるキリストです。イエスは、ギリシャ名でへブル名のヨシュアに相当し「エホバ(意味:天の父なる神の名前)は救いなり」との意味です。

(キリストが誕生する時において、)主の使い、夢に現れて言う。「ダビデの子ヨセフよ、妻マリアを納るる事を恐れるな。その胎に宿る者は聖霊によるなり。かれ、子を産まん。汝その名をイエスと名づくべし。己が民をその罪より救い給う故なり。」(マタイ伝1章20節)と告げられました。

キリスト・イエスとは、神につけられた名前であると言えると思います。

バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で、イエスに対し、「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私はその履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」(マタイ伝3章11節)と言われました。

このシモンペテロは、「汝はキリスト、生ける神の子におわす。」と神に示されて、キリストに対しその言葉をあらわしました。イエスはキリストであると普通に当たり前の様に思うかもしれませんが、しかし、(神であり人の様にして地上に誕生した)イエスがキリストであるという事を信じる事は、人間に与えられた貴い、唯一の恵みの賜物の言葉でもあり、この言葉より、ユダヤ人が、気の遠くなるぐらい長い間、待ち焦がれたメシアが、現在の私や私たちのうちに来って頂いたことの幸せと意味を深くかみしめた今日でした。

  年  月  日
 
聖書のことば
信仰
読み方 ギリシャ語 英語
ピスティス belief, faith
 
ことばの意味
信仰、信頼
聖書の引用箇所
マタイ伝9章29節など
神のご性質のイメージ等
2015年4月13日

イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついてきた。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしに出来ると信じるのか」と言われた。二人は「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。(マタイ伝9章27節-30節)

キリストは、私たちが主に願う願いに対し、キリストを信じ、「私がこれをなすことができると、あなたたちは信じるか?」と問われます。それに対し、キリストへの全託の信仰で、「はい、主よ」(私は、あなたが出来ると信じます。)と信仰で答えた事に対し、キリストは、「汝らの信仰に従って、あなたたちに成れ!」とことばを発せられました。すると彼らの両目は開かれました。この「あなたたちは信じるか?」と問われた後に、「はい、主よ」と答えた後にキリストが言われた『「信仰に」従ってあなたたちに成れ』 ということばに関連してですが、奇跡の起きるような状況では、この時の様に主キリストに対する、あなたのまことの魂からの求めの信仰が必要であり、その信仰のあるところにキリストにより不思議な奇跡が起こるということを示しております。この記事にもあるようにキリスト者にとり、キリストへの「信仰、信頼」はまことに大切なものだと信じます。
  年  月  日
 
聖書のことば
生命
読み方 ギリシャ語 英語
ゾーエー eternal life
 
ことばの意味
(神の持つ)永遠の生命
聖書の引用箇所
ヨハネ伝5章24節
神のご性質のイメージ等
NO1 2014年12月3日
ヨハネ伝5章24節のイエスの言葉の「アーメン、アーメン、私は汝に言う。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の生命を得、 また、裁かれることなく、死から生命へと移っている。」(私訳)という生命というギリシャ語ゾーエーという字です。新約聖書における生命(いのち)という言葉は、その他に、 地上の生命体、人等を表すプシュケーと人生、生活の資等を表すビィオスがあります。このゾーエー、生命という言葉は、キリストの神様の本質を表す言葉ともいえるでしょう。 すべての被造物を創造された神のその根源であるとも言え、永遠の生命とは、神からキリスト者に与えられた最大に価値のある宝とも言えるでしょう。この生命は、祝福の生命 とか、愛の生命とか、喜びの生命とか、恵みの生命…とか、いろいろな形に姿を変えてキリストを信じるキリスト者を恵みます。聖霊と生命(いのち)という言葉は共に大切な 言葉です。主なる神に祈り、生けるキリストの生命を求めて与えられる時に不思議な神の愛の喜びが満ち溢れます。
聖書の引用箇所
ヨハネ伝10章10節
神のご性質のイメージ等
 NO2 2015年02月14日
ヨハネ伝10章10節「私が来たのは、羊が生命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」という生命ゾーエーということばです。牧者なるキリストは、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために生命ψυχη(プシュケー)を捨てる。」とあります。 良き羊飼いなるキリストは、私たち人間の神に、はむかう肉の罪に対し、自分の生命にかえて、贖罪の贖いをし、また、ご自身の生命を神にある犠牲にしてまでも私たちの魂の救い、幸せの為に、私たちに永遠の生命を豊かに与えて下さります。生けるキリストを信じ、信仰生活を送るものは、神の永遠の生命が豊かに与えられ、困難に打ち勝つ神の恵みと力の中に生きられるのでしょう。
 年 月 日
 
聖書のことば
憐れみ
読み方 ギリシャ語 英語
スプラングニゾマイ being filled with tenderness
 
ことばの意味
【腸(はらわた)】(情は内蔵にあると思われていたところから)憐れむ,同情する
聖書の引用箇所
マタイ伝20章34節など
神のご性質のイメージ等
2014年11月9日
イエス・キリストがエリコにおいて、二人の盲人がイエスに目の癒しを願った時に、イエスは、腸(はらわた)からあわれんで 彼らの両目に触れて、癒された。このスプラングニゾマイとは、ギリシャ語原文で『腸(はらわた)から憐れんで』ということばです。 イエスは、弱いこの世では捨てられるような者をも、イエスにすがり求めるものに、腸がちぎれるほど、身をよじらせてまで、深く魂を注ぎ、その人の 願いを聞き届けて、愛して下さる方だと知ります。この憐みが、まことの神の慈愛の憐れみだと感じます。イエスのそばにいるとこの聖霊のたぎる 愛の生命を与えられて、キリストを信じ、まことの幸せに入ることが出来るのだと信じます。
  年  月  日
 

当Webサイト制作において、ギリシャ語や原文などを載せたのは、皆様のために主キリストの信仰の言葉の本意に出来るだけ近づきキリストのまことの教えの言葉を出来るだけ伝える為に少しでも役立てたいと考えたからです。 ギリシャ語は独学の為に、もし、ギリシャ語やその発音表示などに不備が あった場合などは、どうぞお許し下さりますことをご了解下さい。

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