2020年3月6日
「 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」
(マタイ伝26章47~56節 新共同訳)
そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
ここで、ペテロは、敵に対して剣で戦おうとして耳を切り落としたのに対し、ルカ伝の箇所ではイエスはその後すぐに、その耳を癒したとあります。
主は「剣を取るものは剣で滅びる。」と言われました。また、キリストは、「友のために自分の生命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とも言われました。
キリストは、人々の行う戦争で地上での神の国を作ろうとしたのではなく、多くの人々の罪をイエス御自身が十字架にかかり贖い、救い、人々の魂の中に愛の国、神の国を来たらせ、多くの人々を将来天国へ導こうとされました。
イエスが捕らえられると弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった、とあります。キリストの最愛の弟子に、イエスが捕らえられると、見捨てて逃げられてしまい、一人孤独になったイエス様はどんなにお寂しかったかと察します。
人間自身は、本来危険が迫った時は、たとえ師でさえ、どんなものさえ見捨てて自分の身を守ろうとする悪く、弱いものであるということをイエス様は私たちに教えられたのだと感じました。
しかし、その弟子たちは何故世界宗教となったキリスト教を起こし、大胆に伝えるものとなったのでしょうか?
それは、使徒行伝の1章にある『イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである。」 』
イエス様は、十字架刑の後に復活してみ姿を現し、弟子たちを慰められて力づけられました。そして、父の約束されたものを待ちなさい、と教えられました。皆で祈り続けている中、五旬祭の日に父の約束された聖霊のバプテスマを恵まれて受けたとあります。
弟子たちが友のために死をも恐れずに神の福音を伝道する姿に変わったのは、父に約束された聖霊を熱心に祈りつつ、待ち望み、そして、聖霊を受けたからでしょう。
本来に肉の身である生まれながらの人間は、たぶん、相手のことなどかえりみず自分の身と生命を守ることにこだわるものでしょう。キリストの言われた「友のために自分の生命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」などは普通ピンとこないものでしょう。
キリスト様の黄金律より、自分が主より聖霊を頂きて「相手の立場に立ちつつ相手の気持ちになり自分の欲することを相手に成せ」の様にではなく、自分が利己主義優先で、相手に対して無関心で、人々より自分のみの利益を考えるものが肉の身の生まれながらの人間ではと感じます。
その人間が使徒らなどのペテロやパウロの如くに180度存在が良く転換し、弱腰で、悪いものがキリストの愛に強く、弱いものを高め、深く愛し神の愛に生きる者になったのは、主に出会いキリストの聖霊の油注ぎを受けたからでしょう。
どんなに悪く弱いだめな人間でも、キリストの聖霊を受ければ、その人間が大きな愛の存在に変わることができるし、自分の信じる神よりの自己実現を成せると信じます。
人間は弱く悪いものでも、キリストを信じて、キリスト様を求め、主が来たり、聖霊を受け、どんな弱いもの、だめなものでも、キリストは、その人なりの喜びと生きがいを与えてくださる愛のお方だと信じます。あなたに対しても、キリストを信じ、愛の恵みを受けて、本来自分の願っている自分の姿に近づけることを主に祈ります。