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| 憐み深い人たちの報い
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2018年6月3日
幸いなるかな!憐み深い人々は、なぜならその人たちは憐みを受ける。
(マタイ伝5章7節 私訳)
「幸いなるかな!憐み深い人々は、なぜならその人たちは憐みを受ける。」とあります。私たちは、この世で仲間の中で、優れた地位につきたいと普通誰もが思います。学校の授業で、落第点を取ったり、留年になることが続くと、退学になるのではと恐怖を覚えることもあります。クラスの中で成績がいいとほめられ、悪いと落ちこぼれになり、成績を少しでも上げたいと思うこともあります。この世では良いこともありますが、そればかりではないとも思います。
話を変えますが、社会の中には、努力しても弱い立場にある人たちがおります。自分が本当にどん底にある場合、人から憐れまれることを心苦しく感じることがある様にも思います。しかし、自分がどん底を経験したものでも神を信じ、神から深い慈愛を受け、祈り願いが叶い、恵みを受けて神にある志が実現したものは、キリストから受ける憐みがまことの感謝と感じました。
また、自分より劣悪な環境にいる人々、たとえば、自然大災害で有無も言わせずに自分のすべてを失った方は、どんな苦しみを味わったか想像を絶します。海外の貧しい国に生まれた病気のためにつける薬が手に入らない子供たちがいることを思うと自分も苦しみを感じます。そういう人々には祈りがわきます。又、足りないことを悔いながらも自分でできる行動を小さいながらしたりもしました。
自分がどん底に落ちて苦しみを味わい、その上で生けるキリストの救われた者は、キリストへの感謝がわきます。そして私は、同じく苦しむ人々にキリストから救いが来ることへの祈りがわきます。私は、キリストに憐れんでもらいました。その私は、他の同じ様に苦しむ人々もキリストを信じ、主の神の憐れみの及ぶことを祈ります。
憐み深い人とは、たとえば生けるキリストの深い憐れみを受けた人ではと感じました。その憐れみを受けた人は、他の苦しむ人にも神の深い憐れみが及ぶことを願うのではと感じました。すると、さらにキリストの神様は、また、私が苦しい時に私を憐れんでくださったと確信し感じました。
この聖句の「幸いなるかな!憐み深い人々は、なぜならその人たちは憐みを受ける。」とは私にはこのように読めました。キリストの憐れみは、慈しみ深い母親が弱い子供を憐み愛す母親の慈愛にも同じく、いやそれよりも深い愛と感じました。キリストの愛は、自分を犠牲にして自分の身を削りながら愛する子を慈しむ、そして、魂から喜びつつ愛す、天来の聖なるきよらかな愛と感じました。
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