2019年9月5日
『天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に不平を言った。 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。』
(マタイ伝20章1~16節 新共同訳)
この箇所は神の恩恵の賜物の説明を示せるところです。先に選ばれし者の多くの働ける事が必ずしも天国における誇りとならざることを示しています。キリストを信じる者は先のものでも、とても後で今信じた者もすべて神において平等にその人に賜物の恵みをくだされます。
このブドウ園の労働者は、ある意味で労働者の立場を考えると家賃の不平等とも感じます。しかし、この主人は天の父なる神、この労働者はキリスト者であり、地上での労働関係を言うのではなく、天国での神とその僕である信者についてたとえているのであります。
キリスト様が天の父なる神に従順に信頼して従った私たちの見本の様に、キリストを信じる私たちも、天の父なる神に従順に従うことが
大切だと感じました。
普通この世では、労働者を一日働いた人々と1時間働いた人々を同じ代価にすることは不平等と考えるかもしれません。また、たぶん、この最後に雇われた人々は、何か体に悪いところや弱いところがあり普通にはなかなか雇われない事情があったかもしれません。ブドウ園の主人に声をかけられたことはとても恵みだったと言えるかもしれません。
天の父なる神は、慈愛なる最高の権威者でありどんなものからもその意志と行動に制限を受けることはありません。
ブドウ園の主人は、神と労働者の神の子のキリスト者において働いた行動よりも神の意志をなし、また、一日の代価を決めて契約しましたが、1日働いても1時間働いても神の愛からしたら同じだと思いました。
仕事がすぐに朝から得られた人々もなかなか得られなく、夕方5時頃やっと仕事を得られて1時間のみ働いた人々としても同じ神の働き人として先になろうとも後になろうとも同じだと思いました。
新人の様に新しい信者で働いた人にも神の労働の働き手で一日の内で長く働いた労働者に対しても神の愛として平等に愛し同じ待遇で恵み・神の働きの代価を与えたいとする神のご愛はとても深いし慈愛に満ちている
と感じました。
つまり先に選ばれし人は尊いかもしれないですが、しかし、後から新人の様にして神の働き人になった人と神の目から見ればそのキリスト者としての価値は同じであり
先に選ばれしものをその人自身が後に選ばれしものより誇りであると考えるのは神の目から見ては違うという事でしょう。キリストの神は先に選ばれしものでも後に選ばれしものでもその尊さと愛は平等に見てくださるのだと信じます。
この最後に雇われたものは何らの報酬の約束を受けずしてただ主人を絶対に信頼しつつ労働についたのでありました。報酬は神の恩恵の自由なる賜物であり、行為の価値に対する対価ではなく、および、もし僕は如何に完全にその職務を果たしても「私は無益な僕です。私は唯、成すべき事を成したるのみです。」と言いえるほどに神に従順であることを問うているのかもしれません。
神はその約束を必ず実行したまいます。しかし、その心にかなえる者に自由に恩恵を施し、恵まんとする者を恵み、憐れまんとする者を憐み給います。この最後に雇われた神の労働者は彼の信仰により神の目からは偉大に尊く見えたのでしょう。
キリスト様は「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」(マタイ伝23章8節)「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」(マタイ伝23章10節)と言われました。天の父なる神と神の独り子のキリストに対する私たち神の子は、まことの師であるキリストの神様を信じ、学びます。そして、キリストを信じる私たちは、神に対してすべてが平等な神の僕であり、キリストを信じる者、兄弟であります。
たぶん、キリストの神様の目から見れば、神様は私たちに対して、「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ伝15章12節)と言われたように、キリスト者すべてを同じく神より愛し慈しみ給う愛する子として愛されると信じます。