2019年8月1日
『さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。』
(マタイ伝19章16~26節 新共同訳)
金持ちの青年は、善を行うに熱心でありました。ただ青年は彼の従来行える以外に何か彼に永遠の生命を與うるに足るべき善事があるだろうと想像しました。彼は信仰が本であって行為がこれより生まれるものであることを知りませんでした。
イエスは青年が永遠の生命を得るためとして善き事について問うた時に青年に善い者つまり神についての視点が欠けていたことを感じられました。
そしてイエスはモーセの十戒の対人関係の律法を例示されました。青年はこの律法を知らないわけがありません。しかしイエスは青年が真の意味でこの律法を遵守していないことを感じておられました。青年は神に対する信仰の有無について問題にしないで唯外形的にこれを守り、自らこれらの律法を遵守しておるものと信じていました。
青年の心は神により頼みせず財産により頼んでいました。イエスは青年の不安の原因がこれであったことをみとり、この偶像を捨て、イエスに従うことを命じ給いました。
これは一般的ではなく、特別な場合であって、青年の霊の特別の状態にこたえたものでありました。しかし、イエスは従えるものの多くにこの命令を与え給わないでした。財産を所有しても尚全き者たり得るとともに、すべてを貧しき者に施しても全からざる者もあり得ました。すなわち唯一の問題は唯神のみを信じ、彼により頼むか否やにあります。
彼以外に何物かに我らの心を占領して、彼により頼むのを妨げるならば、イエスは我らにこれを捨てて彼に従えと命じ給います。
イエス様は、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ伝9章12~13節)と言われました。
イエス様は、どういう人に対して心の目を向けられたのでしょうか?
私たちの社会では、人は自分に心の豊かなもの、自分が富めるものになることを大切に目指しているとも感じます。ところで富めるとは財産においてのことのみでないとも思います。たぶん、そういう人たちの中のある者は、その自分の富めるものにこだわりすがって生きるかもしれません。
このマタイ伝19章の箇所で富める青年は、イエスに「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と質問しました。この青年は、結果として、神の信仰抜きにした行いで善いことを自分はしてきたと表明した様ですが、しかし、キリストは青年に欠けたる点を感じて教え導こうとされました。青年は財産が多くありました。その上で永遠の生命を善の行いで得る方法をイエスに問いました。イエスの答えに対して、青年は律法や隣人を愛す事を成してきたと言いました。青年は、神に対する信仰の有無に対しては、問題にしないで唯外形的にこれを守り、自らこれらの律法を遵守しておるものと信じていました。イエスは青年が、神ではなく、自分の財産により頼んでいる姿を見つけ、財産を貧しい人へ施し、自分のこだわり、神以外にすがっているものをすべて捨てさせ、神を信じ、キリストに従い永遠の生命を得させようとされたのではないかと思います。しかし、青年は永遠の生命を受けてキリストに従うことはできませんでした。つまりその時に青年は、神よりも財産により頼んでいて、財産をすてて、神以外にこだわっていたすべてを捨てて、キリストに従う恵みと永遠の生命を受けることはできませんでした。
これは、この富める青年の場合にだけのことのみではなく、私たちも同じ問いに対して考える必要があるのではないかと感じました。普通人間は私も含めて、肉を持ち、利己心が強く、富や権力を求め、自分と同じく人を愛することよりも自分の利益ばかりを考えやすいものではないかと反省いたしました。
しかし、キリスト様は本来悪い人間のために、私たちの罪を自身が十字架で血潮を流し私たちを贖われ、愛し、人間の祖であるアダムとエバが神を裏切り楽園追放された人間を再び神と和解させ、キリストにより、キリスト者を天国へ入り永遠の生命を受ける道を開かれました。
そして、今まで記載してきた様なあらゆる意味における富める者は神の国に入る事は出来ません。我らは、キリスト様が言われた山上の垂訓での「幸いなるかな、霊において貧しいものたちは、なぜなら天の国は彼らのものである。」(マタイ伝5章3節 原文訳)の通りに、その意味で、神の信仰において、貧しくなるべきではないでしょうか。富める者は、財産、金銀に富める者のみに限るべきではありません。知識、学問、知恵、経験、地位、身分、その他何にてもその価値ありと認めて神の信仰なくしてその価値により頼んでいるならば、その人はその点において富める者でしょう。イエス様は、私たちに向かいこれらをすべて捨て彼に従うべきことを命じ給いました。しかしキリスト様がすべてを捨てよと言われるのは、無所有にして無尽蔵というか、肉のものの所有はなくとも霊における恵み、キリストを信じその無尽蔵のキリストの愛の恵み、聖霊をいただき、永遠の生命、幸せのキリストの天国を所有させるために言われていたと感じました。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。イエスは彼らを見つめて、「人々の側(がわ)にこのことはできない、しかし神の側(がわ)ではすべてのことができる(原文訳)」と言われました。人間が人間を救うことは出来なくても、キリスト様なら人間を贖い、愛し、救うことが出来ます。もし現在においてどんなにかこだわりを持ちかたくなな人間だったとしても、あきらめることはありません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ伝3章16節)とある様に、神の子キリスト様なら、主キリストを信じれば、私たちは救われます。
私たちは、主キリストをまことに信じれば、永遠の生命を得、溢れるばかりに満ちた素晴らしいキリストの天国へ入る事が許されるでしょう。
キリストの神様の恵みを魂から感謝いたします。