ホーム > 信仰講話コンテンツ > 聖書の学び目次 > 聖書の学び(マタイ伝) > 身の汚れの聖めについて

 | 身の汚れの聖めについて



(心を洗うことの必要性)


2019年4月6日

   『そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」 …(中略)… それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口から入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスがお答えになった。「私の天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたもまだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出てくるものは、心から出てくるので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出てくるからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わず食事しても、そのことは人を汚すものではない。」』

(マタイ伝15章1~2節,10~20節)


   私たちの心を洗うことの必要であるということについて共に学びたいと思います。


   イエスは外部より人間の内に入り来るもの(即ち飲食物)と内部より外部に表れてくるもの(即ち言語・行為)とを区別して前者は人を汚すことが出来ないけれども後者は心の中に悪念が充ち居り、これが外部に表顕するものであって、これがその人を汚すものであるから、先ずこの心を洗うことが必要であることを教えたもうたのであります。自分が相手を思いやり愛する気持ちでない心の状態の場合、人を憎んだり、自分の利を優先するために相手の足を引き、相手をおとしいれることなどでそれに無感覚になってしまう人もいます。心や腹が汚れ人や他人、人間の幸せに対してネガティブにしか思えないような状態の場合、この心よりいずる言語・行為は、もちろん人を汚すでしょう。


   それは、私の尊敬する牧者の出た団体の聖書の原文訳からですが、「だから人々が自分たちに行なって欲しいと、君たちが欲することはすべて、君たちもまたそのように彼らに行なえ、なぜならこれこそ律法である、そして預言書であるからである。」という相手の立場に立って最善に相手の欲することをする相手のかゆいところに手の届く対応法であるキリストの教えられた黄金律の教えと比べると、逆の行為であり、それは人々や団体、国をみだし、生きにくい社会におかしくしていく原因となるだろうと感じこの点は特に気を付けなくてはならないと思います。


   私たちはこの聖書の箇所でキリスト様が教えておられるように自己の内側の汚れを、キリスト様を信じ、祈り、神の贖いの生命を求め、キリスト様により聖霊を受け、自己の汚れの心を洗い、聖化されることが必要であり大切であると感じます。


   人により、他人と交わりあい、会話をし、その存在がすがすがしく、その人といると気持ち良く感じる人がいます。また、近くにいると何となくとげとげしく、気分が滅入ってネガティブな気持ちを感じさせる人も時によりおります。その人を比べての違いは、その人のこの内側の心、腹がきよらかで常に内側を磨き、心を洗い、そのことを心がけている人なのか、そうでない人、つまり、自分の利のみを追求し、相手を思いやる心にかけていて、悪しき念を内側に抱えていながらそれに気がつかない人との違いではないかと感じます。


   ですがうっかりすると私も含めて誰もが困難な現実社会の中で自分の内側の心を洗うことを心掛けることを忘れがちだとも感じます。愛なるキリストに喜ばれ愛されるキリスト者になるために日々に身を聖別することを忘れずに心掛けたいと願います。


   生けるキリストご自身の中にいつもあるまことの愛の兄弟愛を主キリスト様に求めて愛の生命が流れ来て与えられ、主の中で幸せに満ちた生活を送れることを願い信じて歩んでいきたいと希望いたします。

   





サイトについて    プライバシーポリシー    お問い合わせ

© JeremiahnMoses