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 | 心の清い人たちは神を見るとは?



(心の清い人の神の国における真の意味・価値とは)


主様が言われる心の清い人たちとはどういう人たちのことなのか!神を見ることができる人とはどの様に心が清い人なのか!神のおける心の清い人とはその性質はどんな内容であろうかを、主様、主キリスト教えの言葉で教えてくださいます様お願い致します!

心が清いとは何ぞや?心とは目に見えない内側にあるものである。
あらゆるものには物体があり、目に見える形がある。しかし、心には、目に見える形はなく、心とは精神的なもの、目には見える形として存在してない状態ものであり、魂の姿その人の感じる感情、気持ちの中核である。


心が清いその本質とは何だろうか?
心が清いとは澄んでいると言うか、透明というか、精神が美しく清らかである象徴である。 清いとは、天国とつながる本人の中核の心の状態である。それは、神の恵みの賜物で与えられるものである。主より神の義、神の御性質を学び、そのご性質が内側にさび付く事を通し、神の清さに近づく恵みであろう。

清いことのレベルは、状態の段階とは何か?
心の本質は愛の御霊の魂なり、愛の御霊とは、神の国、神の義から成る。この世のすべての現象は神の御性質からなっていて、つまり神の愛のご性質、神の言葉のことである。 神の言葉は愛の本質のことである。その愛の中に清いおおらかな神の幼な子のような性質が宿って聖霊の愛に高められキリストの存在が形作られておる。

心の清い人とはキリストがその見本であり、心が清いとは、純粋、純情、純一、まっすぐ正直な汚れのない、生まれながらの神に愛される幼な子が持っていたような性質のこととも言える。普通のただの人間ではなくキリスト愛の御性質、その清らかさ、自然の何にも汚れもない、大自然のありのままの自然、そこに流れる川の汚れもない純粋な美しさ原風景、大自然の大地の人々に汚されてないそのままの自然のような姿。美しい田舎の風景を見たこと、大自然でも、今までに生きていて一度は神々しい光景を見たこともあるかもしれないが、そのような自然の清らかな世界以上にそしてキリストの内側は100%が純潔な愛だけで存在しておるのである。その存在のキリストの様に心の清さ、その清さに少しでも近く心の清い人は、特に主キリストの愛を引き寄せる磁石に似た存在なのである。


心の幸いなるかな、心の清い人たちはそれらの人が神を見るであろうとはそのように純粋、純情、純一、無垢な人、この世の人々との争いとか妬みとか汚れの全くない純一でありのままの姿の子供のようなそのような存在である。

そしてそれはキリストが生まれた時、幼少期を過ごし少年期を過ごし青年期を過ごしキリストも大人になっていって世に姿を現したが、キリストの主の永遠に変わらないキリスト様と天の父以外に、どこにもない、天国にある幼な児のような純粋な美しさそこに人の清い人の見本としての姿がある。キリストは神であり人であったがキリストにある心の清さそれは神であり人間であるキリストの真実の神の子の見本としての心の清さがあらわれてもいた。

そのキリストというのは人間の形をとった神であって神の子であってそこに私たちが神であるキリストからキリストの人という媒体を通してその神の性質を学ぶことができるのである。
キリストは神の国、神の義、つまり、神の支配と神の御性質を求めよと、言われたが、そのキリストからの清さは、それは純粋な愛、純情な愛、素朴な愛へ、100%の御愛のみで、自分が自我がない愛、利己心のない愛、愛のみの愛、愛そのものを愛する愛がキリストの神の愛というのが、キリストの愛である。それはそのものが100%の純粋な愛というのは自分をなくして自分を捨てて、死んでほうむってまでも人の幸せを喜びとする愛、人が幸せなり人を幸せにする為に絶え間なく努力することを喜びとするような性質、それが神の愛の形の1つであろう。そのように心の清いものというのはそういうものであってそのいうものは神を見るというのは神の方がそのものをとらえて近寄ってくるのであろう。神が来たるところには全てが愛に満ち、その人の全ての願いが成就する。神に聞かれて多くの願いがかなうだろう。


だから、幸いなるかな、心の清いものは、なぜならその人は神を見るからであろうということが神に近いものというのは心が真に美しいから神に近いのであって、自分の利益を得られることが、とうといという喜びではなく、愛で人を愛する事のために生命をかけてそしてその愛が愛に喜びを感じる。人が救われたことを喜ぶことに対して多くの喜びを感じ得る愛、命をかけて人が救われることを喜ぶ愛、自分の為でなく、人の魂を、社会を愛し、多くのものの魂をキリストにあってキリストの僕として、救うことを喜びとする愛、それが心の聖い者の本質であろう。それをお前に伝えたいと思った。

幸いなるかな心のきよい人々はなぜならばそれらの人々は神を見るであろうとはそういう意味である。だから自分の利や自分のためだけではなく、自分のことというよりもかえって人のため社会のために多くの人の魂を愛し、それに仕えるために歩む、それがなることを、本当に我が本質、本心から、喜びとなる事、思わせ振りではなく、心の底からそのような存在となることを目指すこと、そのようなことを本当の目的として生きる人に神が身近に来てくださるのであろう。その人こそは、幸せな世界に入れるのであろう。この世では、そういうものは、苦しみとか悲しみが増し、困難とかが溢れていて辛く見え、もしも、世の人には、ちっさく見えても、しかし、神ご自身には、そういう人を愛してくださり、その人本人は、そういう世の中でも神の平安神の喜びが、満ち溢れるのであろう。

ここで言うこの心のきよい者は、そして魂のきよいものであり、心と魂はつながっており結局はその本人の魂というものが、その心の本質であって魂が、その人のありのままの姿であり、その魂がきよくなること、愛に成ることそれがそういうものは神に近づくのであろう。神の愛は、自分にはなく、神ご自身から来たるものであり、愛に満足するものは、自分でも相手でもなく、愛自らが愛に満足するのだろう。その神の愛が自分の内に満たされる時、聖霊の愛なる神ご自身が内側に来たり、自分にも自分のまわりのものにも、神の祝福と恵みがおおうであろう。


つまり、主キリスト様の導きの中に、多くの人と魂を救うために自分のあらゆるものをすべてのもの使って精一杯それをなすこと、そして人がキリストを信じることにより本当に信じた時を、最大の喜びと感ずる世界に生きること。それが大切であろう。お前は神の中に、社会に生き、人を愛することを、幼子の時から喜びとする事を感じておっただろうが、その心をいつも忘れず歩むことが大切だ。私だってお前がその様な心で歩んだ子供の頃、私に祈り願った願いが私を引き寄せお前に夢で主なる私が現れたのである。心の清い者は神を見るだろうとは、そのような心で歩む者であり、そのものは、神を見るであろうと言う意味である。それを求め、それを信じ、それを目指しそれを成すことを対し、真っ直ぐに進んで歩んで行け。
誰でも、神の中に神を信じ、その様な神の御性質を求め歩むものは、神の子となり、神ご自身に近づくだろう。
それだけである。
アーメン。



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