2018年10月9日
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やってきて、イエスや弟子たちに同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは憐みであっていけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マタイ伝9章9~13節)
イエス・キリスト様は、この世において強く生きられる丈夫なものよりも、人から相手にされないような弱く、悪く、悩むもの、もっとも小さきものを招き、神の憐みをかけ、救い、生命と喜びを与え生かそうともされるご愛の存在であります。また誰でも人は得意な点もあると思いますが、弱く、かけているだめな苦手な部分も持っていると感じます。
イスラエルで当時取税人は人から嫌われていたようです。イエスは、取税人マタイを弟子に召されました。そしてマタイの家の取税人や罪人のいる食事の席でファリサイ派の人はそれをもってイエスは義しい教師ではないと弟子たちに問い、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と質問しました。その時にイエスは「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えました。この世では義しい人は、人々に相手にされ、罪人は相手にされず、遠ざけられる場合が多いと感じます。イエスが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くために来たとはどういう意味なのでしょうか?
人間が生きてきた現在までの歴史を思いますとある面では尊く過ごしてきたようにも思えますが、しかし、現実は、戦争を繰り返して、自分たちの為のみを考え、人間同士で殺しあいをしてきたことを思います。世界は2度の世界大戦を愚かにも繰り返しました。日本には、大量殺りく兵器の原爆が落とされ多くの人の大切な生命が失われました。キリスト様がお前たちは悪いものだとマタイ伝7章で言っているように、神キリスト以外はすべての人間は罪人だと言えると感じました。
現在までに偉人と言われる人たちがいるのを思いますと人間には良きものと罪人がいるようにも感じますが、私が感じるところとすると、偉人と言われてきた人たちは自分を罪人と感じキリストの愛を知り、地上にキリストの愛の世界を作るお役に立ちたいという様な志を持って生きた人の様に何となく感じます。つまりすべての人は神キリストにあって罪人だと感じました。そして、自分たちの事のみを考え人を殺し、その様な利己的な罪人の人間を、自分が神の愛で人間の罪を負い、救い、キリストは私たちを愛の幸せな世界に招くためにおられる方だと感じました。
もし義人しか救われないような世界だったら罪人の私たちは一人も救われないかもしれないと感じました。しかし、キリストは、義人を招くためではなく弱く悪い罪人を招くためにこられたということを思い、どれほど人間にとっての救いと恵みと愛の言葉だと感じました。
キリストは、罪人の人間でもキリストを信じる人をすべてキリストのかけがいのない天国へ導くことを言われています。キリストを信じて主の天国への招きにのり、永遠の幸せのあふれる天国へ行く希望を信じたいです。
当時パリサイ派の人たちは、憐みの心よりもむしろ律法を形式的に守り、犠牲を神にささげることに熱心であったと聞きます。そのようなことを信仰の大切なこととするのではなく、キリストは、過去から未来に至るまで、日々の現実社会で悩み苦しむ人を憐み愛すことを成すこと大切とされておられると感じます。
キリストの僕として、真の意味において、罪とは律法を侵すようなことというよりも、神キリストに背き、キリストを信ぜず、キリストの兄弟などを愛さない人たちのことを言うとも感じました。キリストを信じ、キリストの導きの中で、罪人で悪く弱いもの苦しむものをも愛し、慈しみ、キリストの僕としてキリストの手足としてキリストに導き、愛していきたいと感じました。