2021年6月7日
『食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。』
(新共同訳 ヨハネ伝13章4~17節, 34~35節)
ユダヤで足を洗うのは奴隷の仕事でありました。師であるキリストが弟子たちの足を洗う事にその模範として示されました。
この世では権力者は僕に命令をして、僕を働かせて自分は楽をすることが出来るという様なイメージを感じます。
しかし、キリストは弟子たちを極みの愛で愛し、自ら奴隷のようにふるまい弟子たちの足を洗う方であります。
そして、昇天して天国へのぼり神の右に座られても、いつもわたしたちを愛して弟子の足を洗われて、日常生活で日々わたしたちの受ける汚れを聖められ続けます。
キリスト様は、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。(マルコ伝10章43~44節)
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マタイ伝18章3~4節)とも言われました。
この世の権力者にあこがれて自分は主人となり良い思いをし人を僕に使い働かし自分は良い思いをしたいという様な権力志向とは相反していて神の愛の生命にあふれ自分が僕となり人々を愛し仕え、苦しめる人を愛すのが生けるキリスト様のまことの姿であります。
そして特に自分の愛弟子たちに主と同じくキリストに倣い弟子同士で互いに足を洗いあえ。と言われました。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という戒めを残されていかれました。
キリストの戒めは、知恵をふやすために学べとか、世のために働けとか、偉くなり名を残せとかは教えられず、唯一つキリストに祈り愛の生命を受けつつ、私が愛したように互いに愛し合えという愛の戒めを教えられえて行かれました。
キリスト者の価値観は、金を増すことに非ず、この世の権力を持つことに非ず、学問を究めることでもありません。唯、キリストは、主を信じ、互いに愛し合う愛を求められます。私達は、内側がキリストの聖霊の愛に多くおおわれる神の人を目指す事だと信じます。
そしてその上で、マタイ伝6章にキリスト様の言葉にある様に、「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」つまり、そうすれば、飲む食う着るなど第2のもの、日常の糧は添えて与えられると言われました。まことのキリスト者は第一にキリストを信じて信仰を求めて神を求めていけばそれに加えて日常の糧にも恵まれるお約束の様に、私は、その日常生活を歩めるという経験を体験させていただきました。
主に祈り聖霊と生命を頂き、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というキリストの愛の歩みを共にしていきたいと願います。