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 | 霊眼が開かれるには



(生まれながらの盲人の両眼が開かれる)


2021年2月4日


   「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」(中略)

  「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

((ヨハネ伝9章1~7節、35~41節))


  原文訳では、『そして彼(イエス)が通り掛かると、生まれた時からの盲人の人を見た。彼の弟子たちは彼に尋ねて言った。「ラビ、盲人で生まれたのは、誰が罪を犯したのですか。この人ですか、あるいは彼の両親ですか」。イエスは答えた。「この人が罪を犯したのでもなく、彼の両親でもない。彼に神の業が顕れるためである」』


    生まれながらの盲人は、地上で罪を犯すことがなかったのに盲人であり、両親の罪のせいで生まれた子供が盲人になったとしたら可愛そうとしか言えずと感じたか、弟子たちはこの疑問をイエスに問いました。


   自分のいろいろなわざわいの原因は、神を信ぜず、自分の罪にあり、キリストを信じて、悔い改めて、回心をし、キリストの贖いの生命に贖われ救われるというとらえ方は大切だと感じます。  私たちは、人は普通多くが、トラブルや問題が起こると、自分を守るために、問題の原因を人のせいや他のことに向け、自分を自己弁護し、自分に問題が降りかかるのを避けようとするのではと感じます。


   自分の生まれながらの罪、アダムとエバが神との約束を破り裏切り楽園追放されて入ってきた罪は人間が誰でもが持っている罪だと感じます。キリストがマタイ伝7章11節で言われた「あなたがたは悪いものでありながら…」と言われた、私たちのことを自覚して、キリストを信じて回心をし十字架の血により悔い改めて贖われることが大切だと信じます。  キリストは伝道のはじめに「悔い改めよ、天国は近づけり」と言われました。生まれながらの罪を他人のせいにせずに主を信じ回心をし贖われ自分の事としてとらえて行くことも大切だと信じます。


   しかし、この生まれながらの盲人はこれに該当せずに、盲目なのは自分が犯した罪のせいでもなく、両親の犯した罪のせいでもなく、キリストにより、彼に神の業が顕れるためでありました。  盲人であることにその自分に対してあきらめ、目が見えることなどあり得ないと嘆き、人生を呪っていた様な盲人が、キリストの奇跡の力で、癒されて、目の前に、そうかも知れないと思いでしか描けなかった地上の映像がはっきりと目に映り、色鮮やかな事物が動き出して見えた時の驚きと感動はどれ程の感激であったかと想像を絶するものを感じました。  キリストは。信じる者を愛し、憐み、病をいやし、願いをかなえて幸せにしようとなさる神様です。


   原文訳で『彼らに答えて言った。「このことは実に驚くべきことです。彼が私の両眼を開いたのに、あなた方は彼がどこから≪来た≫かを識らないとは。私たちは識っています。神は罪人たち≪の言うこと≫を聞かれないが、誰か神を敬う者で、彼(神)の御旨を行なう者なら、彼(神)はその者≪の言うこと≫を聞かれることを。永遠の昔から、盲目で生まれてきた者の両眼を誰かが開いたということを、≪誰も≫聞いたことがありません。もしこの人が神の側から≪のもの≫でなければ、何ひとつ行なうことが出来なかったでしょう」。』


    この盲人はキリストに生まれながらの盲目の両眼を大きな奇跡の力で癒し見えるようにしてもらいました。その恵みを実際に受けて、キリストの大きな愛の奇跡の御業を我を忘れて証ししました。そして、キリストのことを罪人と決めつけようとしているユダヤ人に対し、イエスは神の側からの方で、神を敬うもので神の御旨を行なうものであられると大胆に証をしました。  そして、『「私は信じます、主よ!」そして彼にひれ伏した。』 とあります。  彼はキリストを魂から信じたと感じました。


 原文訳で読むと『イエスは言った。「裁きのために、私はこの世に来た。視えない者たちが視えるようになるため。そして視える者たちが盲目になる≪ために≫」。パリサイ人たちの中で、彼(イエス)と共にいた者たちが、これらのことを聞いて彼に言った、「まさか私たちも盲目ではないでしょうね」。イエスは彼らに言った、「もしお前たちが盲目であったなら、罪がなかったであろう。しかし今、『私たちは視える』と言っている。お前たちの罪は留まっているのだ」。』


   この盲人の目が開かれるということは、その裏面に先天的に霊的な盲人として生まれし全人類の霊眼がイエス・キリストによれば開かれることを意味しております。自分は霊的な盲人だと自覚をしてキリストを信じて悔い改めて回心をし贖われていくものは視えないものが視えるようになるでしょう。  キリストに対する信仰は、人がその霊的盲目を自覚する事から始まるのでありまして、如何に宗教的知識を多く所有するとも、この盲目を自覚せざる者は真の霊眼が開かるる事がありませんでしょう。


   原文訳で「アーメン、私は君たちに言う、もし君たちが振り返らないなら、そして幼児たちのようになら≪ないなら≫、君たちは決して天の王国の中に入らない。誰でもこの幼児のように自分自身を低くする者、この者こそ、天の王国の中で最も大きな者である。そして私の名のゆえに、このような1人の幼児を受け入れる者は誰でも、私を受け入れるのである。」 とあります。(マタイ伝18章3~5節)


   自分が完成者だとか、知識が深いとか、力をかざして小さきものや弱いものを見下し、おとしめる様なものではなく、この幼児の様に、純粋で素直で愛なる主に従順に従い、兄弟同士愛し合う様な者こそキリストの神様の深く愛されるものなのでしょう。  私たちは完成されたものでなくとも、もしその身がぼろであったとしても、そのままの姿でキリストの許へ信じて行きさえすれば、キリストは信じる者を愛し、永遠の生命を与えて、地上でも、しもべの願いを聞きかなえ、他界後も素晴らしい天国へも導いてくださる愛の神様でしょう。


   そしてキリストを心から信じる者で、自分を霊的盲目と自覚をして、キリストの神の支配と神のご性質を求めて、キリストに学ぼうとするものは、信仰が成長して、霊眼が開かれていき、また、キリストの愛をおびる者になるのだということを信じたいと感じました。


(参考文献:ギリシャ語原文訳について 『キリスト聖書塾 ギリシャ語聖書対訳テキスト「ヨハネ福音書1」』)


   





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