2021年8月7日
『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。』
(新共同訳 ヨハネ伝15章5~17節)
聖書で愛という言葉は3つに分けられます。古典ギリシャ語において性的欲情に基づく愛、または倫理的宗教的に高められた愛としての聖なるものへの憧憬などを表わすエロースと兄弟愛、友愛、人類愛を表わすフィリア、神の愛を表わすアガペーです。
キリスト様はこの箇所で原文訳で
「まさに私が君たちを愛したと同様に、互いに愛せよ。これこそ私の命令である。人が自らの命をその友のために捨てること。これよりも大いなる愛を誰も持たない。」と言われました。
この箇所の愛すは神の愛のアガペーが使われております。
キリストは私たち1人1人の人間の罪を贖い、神様と和解させ、許すために十字架にかかり、流されたその血潮で私たちを聖めて、私たちのために命を捨てられました。
エロースやフィリアの愛も大切であると感じますが、キリストの神の愛アガペーの愛は私達を愛する神の無償の愛です。
私はキリスト者として神の愛の生命に満ちているときは元気で喜びに満ちています。しかし、日常生活を送る上で日々の雑事に忙しく追われると、神の生命が枯れてきて、不平不満等が多くなり、肉の身となります。
そんな時に日常の中で生けるキリスト様に聖霊と生命を求める祈りをして神の愛の生命を求める祈りを致します。
神の愛の生命は、すべてを祝し、すべてを愛し、癒し、問題を解決する根源だと私は信じておりまして、日々の中でキリストの愛の生命を求めて祈り歩むと日常生活が喜びに満たされて歩めます。
神の愛アガペーの愛は愛する親が子を思う以上の愛、わが父なる神の慈愛、いつくしみの愛と感じました。
そしてキリスト様は「まさに私が君たちを愛したと同様に、互いに愛せよ。これこそ私の命令である。」と言われ、この神の愛アガペーの愛をキリスト様の祈り受けて兄弟姉妹がそのアガペーの愛で愛し合えと言われております。
まことのキリストの愛と神の兄弟愛は、キリストの神様しか持たない真実の愛、そしてどこにもないいつくしみと憐みと恵みの愛であり、キリスト者兄弟同士でその様な愛で互いに愛し合えることは幸せだと感じました。神の愛アガペーの愛をあたえるキリスト様を称え、その恵みに感謝を致します。
(参考文献:ギリシャ語原文訳について 『キリスト聖書塾 ギリシャ語聖書対訳テキスト「ヨハネ福音書2」』)