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 | キリストの一方的な恩寵



(霊的に生きるキリスト者)


2022年5月12日


   さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
(新共同訳  エペソ書2章1~22節)


   『さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。』とあります。
生まれながらの人間は、純粋で美しいという見方もあります。感情や心もストレートである良い点もあるかもしれません。しかし、生まれながらの人間は、その価値観は、自分の欲望を優先して動くことが多く、主に自分に利益あることを大切にし、他人の立場に立ち配慮し、行動することにうとく感じます。キリスト者は何よりもキリストの神の愛に生き、神を愛し、兄弟を互いに愛し合うことの大切さを知っていると感じますが、生まれながらの人間は、知らず、無関心であるように感じます。キリストを信じてキリスト者になり、人は新生して新しく生まれ、霊的なキリストの生命を受けられるようになると思います。しかし、もしかすると、生まれながらの人間は、霊的には新生しておらずに、霊的に死んだ人間と表現ができるかもしれません。


  『わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。』とあります。  キリストを信じる前の私たちも同じく、肉の人間、自分自身の肉の心の欲するままに行動をしていたのではと思います。
神は天地創造で、アダムとエバをつくりました。しかし、アダムとエバは神の約束を守れずに蛇の誘惑にのり、知恵の実を食べて、神を裏切り、罪を犯し、楽園追放を受け、始めのアダムから始まる人間は神の怒りを受ける者であったのではないかと思います。 キリストを信じる前の生まれながらの人間の私たちは、神からの怒りを受けるべきものであったかもしれません。


  『しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。』とあります。
キリスト様が生まれて十字架にかかり贖いの御血潮を流されて、私たちの罪を聖め贖われて、キリストを信じる私たちには神と和解をさせ、贖いの御血潮で聖められて罪が許されて救われる道を開いて下さりました。主に父なる神が怒るのは、キリストを通して聖霊の愛を与え、多くの愛を与えてくださろうとしているのに、キリストに背き、キリストを信じないで、自分の肉の利を追求し、愛の生命を受けてキリストの兄弟同士で互いに愛し合うことは幸せなことなのに、神様に不信なふるまいをするようなものに対してであるのではと感じました。
そして愛の父なる神様が怒るのは、愛に生きるキリスト者に対してではなく、キリストを信じない不信仰な人に対して、信仰のすばらしさを伝えるために対してではと感じました。
親が子に対して育てるのに、怒ることに対してですが、子供に対しては、愛して、ほめて、受け入れて育てるのは基本ではと感じますが、もし子供に間違っている点があると感じるときは、父親などとしても、まず、子供をほめたうえで、そして、間違っている点を指摘をして、怒って、諭して、教える事なども大切で必要なことだと感じました。
キリストの父なる神は、私たち主を信じる者たちを心から愛し、慈しまれるお方であると同時に威厳を持ち、人々に対して、神を愛し、兄弟を愛することを教えられる力強いお方であると感じました。
そして私たちが救われるのは自分の行いの業によるのではなく、神の愛と恵みで救われるものだと感じました。
またそのキリスト者の救いは、神の一方的な恩寵によるものだと感じました。


  『なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』とあります。
神様の目的は、私たちが、キリストを信じる者として造られ、そして主が私たちを救われ、また、神が前もって準備してくださった良き業を成すために主により造られたのです。私たちは、キリストの愛の生命を受けて、満たされて、自分の努力ではなかなか出来ない良い業を、成すことが出来るようになれるのです。良い業を出来たらしたいと思うことが子供の頃よりありましたが、キリストを信じる者は、良い業が出来るように作られるということは本当に幸せなことだと感じました。


  『だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。』とあります。
キリストを信じる前は、私たちはキリストに属していないキリストなき者でありました。この世の中でまことの希望を持たず、神による恵みも知らずに生きる者でした。キリストを信じて、願いが叶い恵みを与えられることを一人でも多くの人にキリストを信じて体験してもらいたいです。


  『しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。』
ここで言われている、この遠く離れているあなたがたとは、異邦人たる信者であり、近くにいる人々とはユダヤ人であります。近くにいるユダヤ人にも、遠く離れている異邦人にも主はキリストの愛の平和の福音を伝えてくださりました。
こうしてキリストは、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄され、平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。


  『従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。』
そしてすべてのキリストを信じる者は、神の家族であり、私たちも霊の働きによる神の住まいとなるとあります。私たちは、今も働き給う生けるキリストを信じて、キリスト者一人一人が霊なる神の住まいとなり、神の福音の手足となり、キリストの愛と恵みの福音を伝え、主の祝福の愛の信仰を歩みたいと願います。


   主に感謝しつつ、キリストの中に恵みある人生を送れることを願い祈ります。


   





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