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 | イエス・キリストの使命



(イエスの言われるまこととは)


2021年11月4日


  人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

  イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 ピラトは言った。「真理とは何か。」

(新共同訳 ヨハネ伝18章28~38節)


  国の裁判で死刑を宣告することは、重罪を人間に起こさせない抑止力としては意味あるものかもしれません。賛否両論あることも分かります。とりあえず、まず、私の一クリスチャンとして感じていることを記載したいと思います。
このキリストの地上で活動していた時代は、ユダヤ人自身が裁判で死刑を宣告することは認められていなかったようでした。他人に対し血を流す罪は自らの血でつぐわなければ贖われないということもあります。しかし、人間が罪なき人間を裁判でも裁き、死刑を宣告するのは、生命は何よりも大切で、創世記にもある様に、神が人に生命の息を吹き入れて人が生きる者となったと言われるときに、人の生命は神が関わるものであり、人が自由に死刑を宣告することを出来るものなのかと言う点は、私自身は、現代の時代においても同じくして疑問を感じています。
  ユダヤ人らが裁判で死刑を宣告できずにローマの法律による支配者たらんとするピラト総督に死刑を宣告してもらおうとするユダヤ人の支配者らのイエスに対する敵対心による行為は人間の罪、悪を象徴する出来事だったと感じました。


  ピラトに対して、ユダヤ人指導者らは、捕縛の理由として「イエスが己をユダヤ人の王となす」ものとして世を乱すものとして示された様であります。それで、ピラトは「お前はユダヤ人の王なのか」とイエスに問うた時にイエスは、原文訳で「あなたがあなた自身でこう言っているのか。あるいは他の者たちが私についてあなたに言ったのか」。と問いました。イエスはピラトの答えによりメシアとして答え方を選択する必要がありました。ピラト自身が言っているのなら地上の王なのかの問いでありその場合はノーであり、他の者つまりユダヤ人らがピラトに告げたのであるのならユダヤ人はメシアを理解するはずゆえにイエス(はい)と答え給うたでしょう。


  原文訳で、イエスは答えた、「私の王国はこの世から《のもの》ではない。私の王国がこの世から《のもの》であったなら、私がユダヤ人たちに引き渡されないために、私の従者たちは闘った。しかし今、私の王国はここから《のもの》ではない。」
  キリストの王国、神の国は、この地上に存在しないというのではありません。神の国は確かにこの地上にも存在します。しかしながらその権力の源は天にあり、人間力、地的権力とは関係がないと言われました。


  神の国は、キリストの聖霊と生命と慈しみの愛の満ちる国であり、その純粋な愛の力がキリストを信じる隅々のキリスト者へ及ぶ愛と幸福が支配する国だと信じます。


  原文訳で、するとピラトは彼に言った、「それでは、お前は王なのだな」。イエスは答えた、「『私は王だ』と言っているのはあなただ。この私は、真(まこと)のために証をする、このことのために生まれ、このことのために世に来た。すべて真の中から出た人は、私の声に聞き従う」。ピラトは彼に言う、「真(まこと)とは何か」。 イエスの言う真とは、哲学的、科学的真理ではなく、イエスによりて表はされし、父なる神の本質であり愛と義であります。
イエスの言う真とは、この世の弱きものや悲しむもの苦しむものを慈愛のイエスの父なる神の本質の愛で愛する愛とその神のご性質そのものであります。


  イエス様は、そのまことのために証をし、生まれ、このことを成すために地上に来られたのです。そしてキリスト者になるものはキリストの恵みによるものと信じます。
イエスの弟子、キリスト者は、政治的野心家でもなく、当時のロマ政府に対する反逆者の様なものでもなく、唯、真理より出ずる者であります。
政治家のピラトは、真理によらず利害により行動し、利益なきものは彼らには真理ではなく、真理の何たるかを知らない様でした。
現代の政治を行なう政治家の世界にも同じく感じることがある気がしました。


  生けるキリストはそのまことにより、弱肉強食の世界とは違い、弱き者、苦しむ者、悩める者、主を信じるすべての人の友であり、神の子、その信じる小さきものにも、力と恵みと愛を与え、主を信じる者を幸せと祝福に導くお方だと感じました。


主キリスト様のまことと御愛に感謝と賛美をささげます。


(参考文献:ギリシャ語原文訳について 『キリスト聖書塾 ギリシャ語聖書対訳テキスト「ヨハネ福音書2」』)


   





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