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 | 大きな危機に対する対応法をイエスに学ぶ



(反対者へのメシアとしてのイエスの対応)


2021年3月4日


  イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 (中略)

  ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」 (中略)

  父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」


(新共同訳 ヨハネ伝10章23~24節、31~32節、36~38節)


  原文訳で『するとユダヤ人たちが彼(イエス)を取り巻いた。そして彼に言い始めた、「いつまで我々の心を焦らすのか。もしお前がキリストなら、我々にはっきりと言え。」』と言いました。 取り巻いたのは、イエスをして答えしむる迄は逃さじとの態度を示したのであります。その答えの如何によりて、ユダヤ人らはイエスを殺さんと企てておりました。


   原文訳で『イエスは彼らに答えた、「私はあなたたちに言ったが、あなたたちは信じようとしない。私が私の父の御名において行なっているもろもろの業、これが私について証ししている。しかしあなたたちは信じようとしない。私の羊でないからだ。私の羊たちは私の声を聞き分ける。私もまた彼ら(羊たち)を知っている。そして彼らは私について来る。また私は、彼らに永遠の生命を与える。それで彼らは永遠に滅びることなく、誰も彼らを私の手から奪い取らない。私の父が私に与えられたものは、すべてにまさって大いなるものである。それで、誰も父の御手から奪い取ることは出来ない。私と父はひとつである。」』


  かくの如くイエスが遠回しに答えたまえる理由は、もし直接に「我はキリストなり」と言えばユダヤ人は彼らの想像する如きキリストと解する恐れがあり、もし「キリストの非ず」と言えば事実を否定することになるからでありました。  キリストの羊は、キリストの聞き従いその間に愛の密なる関係が成立し、イエスはその羊に永遠の生命を与え、愛を持て守り給えば、何ものもイエスより奪うことが出来ない。イエスの言葉を信ぜず、その証を信ぜざるユダヤ人はイエスに従わず永遠の生命を受けられず、悪魔来たりて彼らを奪い去るのであります。イエスを信じる者と信じない者との間には、かかる大なる運命の差が生じるのであります。  そしてキリストの羊の絶対安全の状態を示しました。  イエスはユダヤ人の質問に答えたもうたと同時に、ユダヤ人の不信を責めたまいました。


  原文訳で、それに対して『ユダヤ人たちは彼(イエス)を石打ちするために、再び石を持ってきた。』 とあります。  ユダヤ人は、怒り、また、イエスが自分たちのわなの策にはまったと感じて石打ちしてイエスを殺そうと石を持ちました。  イエス様には絶体絶命の危機ではないかと普通は誰もが感じるのではないでしょうか?


  原文訳で『イエスは彼らに答えた。「私は父から多くの良い業をあなたたちに示した。それらのどの業のゆえに、私を石打ちにしようとするのか」。ユダヤ人たちは彼(イエス)に答えた。「我々は良い業に関してお前を石打ちするのではない。神をけがすことに関してだ。お前は人間でありながら、自分自身を神としているからだ」。イエスは彼らに答えた、「あなたたちの律法の中に書かれているではないか、『私は言った、あなたたちは神々である』と。神の言葉が現れた人々に向かって、彼らを神々と呼ばれた以上、ーそして聖書がすたれることはあり得ないー父が聖別して世に遣わされた者に、『お前は神をけがしている』とあなたたちは言うのか。『私は神の子である』と私が言ったからと言って。もし私が私の父の業を行なっていなければ、あなたたちは私に信じるな。しかし、私が行っているなら、たとえあなたたちは私に信じなくとも、そのもろもろの業を信じよ。私の内に父が〈居り〉、私もまた父の内に〈居る〉ことを、あなたたちが知って悟るため〈である〉。」[それで]再び彼を捕らえようと、彼らは狙い始めた。しかし彼(イエス)は彼らの手から出て行った。』


  ユダヤ人らは旧約聖書レビ記24章16節を引いたのか、それをつかい、イエスを石打ちしようとしました。  しかし、この場面において、キリスト様は、恐れずに、毅然と対応をされました。  もしイエス様ではなく普通の人であったならば、ユダヤ人に対し、言葉を撤回したり、謝罪したりして、期待とは反対に、石打ちにあって殺されてしまったかもしれません。


  相手が不当に律法を武器に言葉のわなを使い、ある意味で不適切と思える様な言葉を無理やりに引き出して、おとしいれ、殺そうと最悪の策で向かってきたときに、イエス様は、相手に同じく言葉で対抗をされました。  その対応法として、イエス様は、メシアとしての自覚を持ち、律法と聖書を武器に御言葉をもて彼らの行動を止め、対応されました。  ユダヤ人らがイエスに対する反対を心にいだけることはイエスの奇跡にあった様なので、イエスは彼らに対する憤激の情よりこの皮肉の言葉をもて、彼らの心の奥底にその鋭き一撃を与えたもうたのでありました。  この箇所はこの世の羊、あるいは弱き立場のクリスチャンにも大きな学びを与える箇所だと感じました。  もし敵の様な相手が、不当に律法をもって私たちをおとしいれようとするときに、キリスト様に倣い、クリスチャンの私たちも、主キリストの愛の精神において、聖書の言葉の愛のご性質の言葉と律法による対応で対策をすることではと感じました。


(参考文献:ギリシャ語原文訳について 『キリスト聖書塾 ギリシャ語聖書対訳テキスト「ヨハネ福音書2」』)


   





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