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 | 見ないで信じる信仰



(イエスの御名による信仰と永遠の生命の獲得)


2022年1月6日


  マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


  その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


   このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
(新共同訳 ヨハネ伝20章11~31節)


  原文訳で、『イエスは彼女に言う、「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」。彼女は、それが園の番人だと思い込んでいたので彼に言う、「ご主人、あなたがあの方を運び去られたのなら、どこに彼を置いたのか私に言ってください。そうすれば私はあの方を運びます」。イエスは彼女に言う、「マリアよ」。彼女は翻って彼にヘブライ語で言う、「ラボニ!(それは「先生」と言われる)」。』


  イエスが十字架上で息を引き取られ、墓に納められた後、週の初めの日にマグダラのマリアが墓に行くと墓から石が取りのけてあるのを見ました。マリア自身はイエスの屍がどこに取り去られたかが分からないと感じていました。
マリアは、慈愛なるイエスを思い返し、主を慕い、イエスが墓から取り去られたと思い、悲しみ、泣いていました。主キリストは、マリアに現れて、「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」。と問われ、それが園の番人だと思い込んでいて、彼に「ご主人、あなたがあの方を運び去られたのなら、どこに彼を置いたのか私に言ってください。」と言うと、イエスは彼女に言う、「マリアよ」。と優しく言葉をかけました。イエスを信じる者で、悲しむ者、苦しむ者、悩める者にイエスは近づきいつも慈愛と優しさを込めてあなたに愛に満ちた言葉をかけてくださります。
イエスは世の中に虐げられ、苦しみ、悩める者の友であります。
復活のイエスに愛に満ちた声をかけられた者はなんと恵まれ祝された者かと感じました。


  原文訳で、『12人の中のひとり、デドモと言われているトマスは、イエスが来たときに彼ら(弟子たち)と共に居なかった。(中略)彼は彼らに言った、「彼の両手の中に〈ある〉釘の傷痕を見、私の指を釘の傷痕に差し入れ、私の手を彼の脇腹に差し入れなければ、私は絶対に信じない」。そして8日の後、再び彼(イエス)の弟子たちは〈家の〉内に居り、トマスも彼らと共に<居た>。戸が閉じられていたのにイエスがやって来る。そして真ん中に立った。そして言った。「平安が君たちに」。それからトマスに言う、「君の指をここにもって来い。そして私のこの両手を見よ。また君の手をもって来い。そして私の脇腹に入れよ。信じない者であるな。信じる者〈であれ〉」。トマスは答えて彼に言った、「私の主、私の神」。イエスは彼(トマス)に言う、「私を見たので君は信じたのか。見ないで信じる者たちは、〈何と〉恵福なことか」。』


  トマスは他の弟子たちが復活のイエスに出会ったときに、その場に居りませんでした。そして疑い深いトマスは、「彼の両手の中に〈ある〉釘の傷痕を見、私の指を釘の傷痕に差し入れ、私の手を彼の脇腹に差し入れなければ、私は絶対に信じない」。と言いました。 現代に生きる私たちの中にも事実を現に見て確認しない限り信じない人が多くいると感じます。トマスは他の弟子たちはイエスに出会えたのに自分だけが出会えないことに苛立ちを感じたのかもしれません。


  しかし、イエスはそんなトマスに対して、再び他の弟子たちと一緒にいるトマスに現れました。一人の迷える羊のために主は多くを労し給います。 イエスはトマスの言ったほとんどを繰り返してトマスをしてその不信を悔いてイエスを信じしめようとしました。そしてトマスには主の復活を信じる機会が与えられました。トマスをして不信に陥れざらしめんとするキリストの愛の結果でした。


  そしてキリスト様は、『イエスは彼(トマス)に言う、「私を見たので君は信じたのか。見ないで信じる者たちは、〈何と〉恵福なことか」。』 私たち現代人は、先程も記載しましたように、このトマスと同じく、たとえ愛なるキリストの言葉でさえ、事実を自分で確認できない様な場合は信じることが出来ないものが多いのではないかと感じました。イエスの奇跡や復活の記事も科学的に証明させなければすぐには信じられない人も多くいるのではないかとも感じました。しかしキリストは、『「私を見たので君は信じたのか。見ないで信じる者たちは、〈何と〉恵福なことか」。』と愛なるキリストを見ないでも信じる者たちは〈何と〉恵福なことかと、恵みと祝福に満ちたことかと言われました。 救い主メシアのキリストや天国を実際見れば信じられるというのではなく、見ないで信じられることは恵福だと、見ないで信じることがまことの信仰であると教えられました。 確かに現代はオレオレ詐欺などや人に騙されることも多くなり、たやすく人を信じることは注意が必要だとも感じます。しかし、愛に満ちた主キリスト様を信じることはとても大切なことだと感じました。 慈愛に満ちたキリスト様の教えを学び、主への信仰生活をして御心ならば願いがかなう体験を経験して、キリストの愛の教えに対して、私は少しずつでも、見ないで信じる信仰の素晴らしさを感じることが始まったことを生けるキリスト様に感謝しております。


   この章の最後に原文訳で『しかしこれらのことが書かれているのは、イエスが神の子キリストであるとあなたたちが信じるため、また、信じて彼の名において生命をもつため〈である〉。』とあります。 これは、とても大切なことであり、福音書の目的であり、福音の要旨であります。
キリストの福音、キリストを信じることとは、イエスに対する信仰を得さしめ、キリストの御名による信仰によりて、イエスの生命を受けて、土くれでしかない様な私たち人間がキリストの与える永遠の生命をいただけることであります。
キリストを地上でまことに信じるものは生涯も恵みの人生を歩め、主を信じつつ他界したときにも永遠の生命を与えられて、幸せと驚くべき魂の喜びに満ちた世界にキリスト様とともに永遠に生きられる恵みがあたえられると信じます。


   あなたもキリストをまことに信じて永遠の生命を与えられて祝福の人生を歩み始められることをお祈りいたします。


(参考文献:ギリシャ語原文訳について 『キリスト聖書塾 ギリシャ語聖書対訳テキスト「ヨハネ福音書2」』)


   





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