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 | 主は律法の形式的な主義に勝つ



(キリストの憐れみの深さ)


2020年10月3日

   その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。  その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
(新共同訳 ヨハネ伝5章1~18節)


   キリストの癒しとその憐みの愛の心について読んでみたいと思います。
  そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。」とあります。たくさんの病人の中でイエスの目にとまったのは三十八年間も病気に苦しんでいた人、もっとも悲しみ苦しんでいた人でした。イエス様は、苦しみ悩む人の一番近くにいて愛し癒してくださる方です。しかし、その人の信仰に関わらずにイエスの憐れみの大きさがこの愛の癒しを成しました。


  この箇所を原文で読むと『イエスは臥(ふ)せっているこの人を見て、すでに長い年月≪その状態に≫あることを知って、彼に言う、「健全になることを欲するか」。…<中略>…イエスは彼に言う、「起きよ!お前の寝床を取り上げよ!そして歩け!」。すると直ちにその人は健全になった。そして自分の寝床を取り上げて、歩き始めた。』です。
 キリストはこの苦しみ悩む人に「健全になることを欲するか」と問われ、一言、「起きよ!お前の寝床を取り上げよ!そして歩け!」と腸(はらわた)からの憐れみ「スプラングニゾマイ」を起こされて言われました。
 すると『直ちにその人は健全になった。そして自分の寝床を取り上げて、歩き始めた。』と直ちに即座に癒されて歩き出したとあります。  キリストご自身が相手に対し憐み癒したいと願われるとどんなものでも癒すことができます。生けるキリストの愛の大きさに驚きました。


   しかし、『その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」』とユダヤ人たちは、その人がまことに救われるよりも、律法を取り上げてそれを阻もうとしました。


    ところでそれに対してイエスは言われました。『イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」』と。  律法は大切でありもちろん守るべきものだと思います。しかし、キリストにおいては、このユダヤ人らの様に、病者が安息日に癒されたので床を取り上げず病は癒されないとする形式的な律法の主義を取るのではなく、神の愛が絶望せる大病者にたいしての大きな救いを優先する神の愛の救いを成されました。


   つまりキリストは神の愛を成すために、ある場合には、律法を破ると思える様なことにもこだわらず、優先して、悩めるもの、苦しめる者を救う方であります。
 この聖書の箇所を見ると律法や法律の適用の仕方においてや解釈においても、過去の例にのっとり一律的な適用をせず、形式におちいることを避け、神の子らの為、悩める者の救いのために相手の立場に立った適用をすることが最善な方法だと言えるとも感じました。


   生けるキリスト様に対し、私たちを愛される大きな愛を心から賛美し感謝いたします。
 私は主キリストを信じて主の導きを感謝して歩んでいきたいと願います。  皆様にも主の祝福をお祈りいたします。


   





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