2021年4月2日
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。
(新共同訳 ヨハネ伝11章17~27,38~44節)
原文訳で『マルタは、イエスに言った、「もしあなたがここに居られたなら、私の兄弟は死ななかったでしょうのに。〔けれども〕あなたが神様に願い求められるならばすべて、神様があなたにお与えになることを、今でも私は識っております。」』
とマルタはイエスに言いました。マルタは知識としては復活を知っていてもイエスへの信仰ではありませんでした。
『イエスは彼女(マルタ)に言う、「あなたの兄弟は蘇る」。マルタは彼(イエス)に言う、「最後の日に、復活の時に彼が蘇ることは識っております」。』
イエスは信仰の内容を示し給いました。マルタは、信仰がこれに共鳴できるほどに達していなかったため、イエスが単に終末の日における復活を示して彼女を慰め給うたと解しました。イエスへ対する信仰はかかる知識だけでは足りず、その後でイエスは教え給いました。
『イエスは彼女に言った、「この私は復活であり、生命である。私を信じている者は、たとえ死んでも生きる。生きていて私に信じている者はすべて、永遠に死ぬことはない。このことをあなたは信じるか」。』
この私はと言い、イエスはマルタの心を彼自身に引き寄せました。信仰の対象は神学の知識にあらず、キリストに対する人格的信頼であります。生きるも死ぬるも唯キリストを信じる事、彼との人格的一致の関係に入るのが主要の問題であることを示しております。
『彼女(マルタ)は彼に言う、「はい、主よ、私は信じ切っております。あなたこそ世に来るべき神の子キリストであると」。』
理知的であったマルタは遂に主イエスをキリストと仰ぐ信仰を告白するに至りました。
この箇所を私の尊敬する伝道者の先生は、「神の力は「信じる心」を条件として働く。その結果として神の栄光を見ることが出来る」。と言われました。
「人々の側ではこのことは不可能である、しかし神の側ではすべてのことが可能である」と新約聖書のマタイ伝にありますが、大きな奇跡の起きる背景には、その当事者や関係者のキリストに対するまことの信頼、主キリストへの信ずる心があるかが大切だと感じました。
『イエスは涙した。それでユダヤ人たちは言い始めた、「見よ、どんなに彼を愛していた事か」。しかし彼らの中のある者たちは言った、「盲人の目を開けたこの人も、この者(ラザロ)が死なないようには出来なかったのか」。それでイエスは再び自らの内に慟哭し、その墓に向かって来る。』
ここでも人々の意見は2つに分かれました。一つはイエスに好意を寄せる人たち、一つは拒まんとしている者たちでした。
イエス様は、慟哭されました。ユダヤ人らがイエス様を殺すことに思いが行くことを振り切りラザロを蘇らせることに進みました。そして、このようなユダヤ人の邪悪な心に対して憤りをされました。
『イエスは言う、「石を取りのけよ!」死んだ者の姉妹マルタは彼(イエス)に言う、「主よ、もう臭くなっています。4日目ですから」。イエスは彼女(マルタ)に言う、「私はあなたに言ったではないか、もしあなたが信じるなら神の栄光を見ると」』。とあります。
マルタは、イエスのキリストであることに向かずに、死んで4日目のラザロを見てしまいました。私たちも同じとも感じますが、キリストをまことに信じると大きな奇跡も起こるのにこの世のこと、ラザロの死んで4日目である肉のことに目を向けてしまうことです。神の独り子のキリストのいう事は、すべて信じて受け入れて即座に従う信仰はとても大切だと感じました。
原文訳で、イエス様は、父なる神に願う時に、『お父様、あなたに感謝します。私(の言うこと)を聞いてくださったことを。あなたがいつも私(の言うこと)を聞いてくださることを、私は識っておりました。』といい「私のいうことを聞いてくださったことを」と得たりと信じて祈りをささげておりました。
奇跡が成る祈り、願いが成る祈りの時には、イエス様は、得たりと信じて祈る祈りをされておりました。私もイエス様に学びたいと思いました。
『しかし取り囲んでいる群衆のために、私は言ったのです。あなたが私をお遣わしになったことを彼らが信じるために』と祈られました。
イエス様のこの祈りの理由は、死人の復活の大きな奇跡を起こして、この世の多くの人々に生けるキリストを信じる信仰を与え、キリストの愛により魂の救いを与えるためであったと感じました。
そして原文訳で読むと「ラザロよ出て来なさい」ではなく、もっと直接的に「ラザロよ、出てこい!」とラザロの霊にキリストの霊言により命令するように言われました。
『その死人は、両手両足を包帯で巻かれて出て来た。彼の顔は手拭いでぐるぐる巻かれていた。イエスは彼らに言う、「彼をほどけ、そして往かせよ」』
イエスの祈りと言葉により、ラザロの霊は呼び出されて肉体に戻り、復活して両手両足を包帯に巻かれたままの姿で出てきました。イエス・キリストとして死人を復活させるという大きな奇跡を現実に起こされました。
この箇所で再度繰り返します。
「人々の側ではこのことは不可能である、しかし神の側ではすべてのことが可能である」と別の箇所にありますが、大きな奇跡の起きる背景には、その当事者や関係者のキリストに対するまことの信頼、主キリストへの信ずる心があるかが大切だと学びました。
イエス・キリストがマルタに問うた復活を信じる信仰がありました。また、主イエスが天なる父に対するキリストの福音を信じる世の悩める人々への神の愛の救いのための愛の祈りと信仰がありましたが、父なる神に祈りが聞かれてこの大きなラザロの復活の奇跡が起きました。
キリスト様は大きな愛で多くの悩める者の友となり願いを聞かれ奇跡を起こされます。また、大きな奇跡が起こるためには、その背後に当事者たちのキリストを信じる信仰があることもとても大切だと知りました。
私も信仰の大切さを感じ、素晴らしい愛のキリストをさらに信じて信仰を深めていくことを願いたいと感じました。
(参考文献:ギリシャ語原文訳について 『キリスト聖書塾 ギリシャ語聖書対訳テキスト「ヨハネ福音書2」』)