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 | キリストの父なる神からのみ旨への自覚



(主キリストの神のみ旨への志)


2021年12月2日


  そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。


  イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

(新共同訳 ヨハネ伝19章16~30節)


  原文訳で19章11節12節に、『イエスは[彼に]答えた、「あなたに上から与えられていなければ、あなたは私に対して何らの権威ももっていなかっただろう。このことのゆえに、私をあなたに引き渡した者にはより大きい罪がある」。この時から、ピラトは彼を釈放しようと努めた。』とあります。 ピラトはローマの法律の支配者たらんとしていたが、イエスに罪を見いだせずに、過越祭に誰か一人を釈放する慣例などでも罪を赦し何とか釈放しようと努めました。しかし、ユダヤ人の支配者らのメシアのイエスを理解できないなど悪のためイエスは死刑の判決を受け罪に定められ十字架につけられました。


  原文訳で、『ピラトは高札をも書いた。そして十字架の上に置いた。それは「ユダヤ人たちの王ナザレ人イエス」と書かれていた。それで、ユダヤ人たちの多くの者がこの高札を読んだ。なぜならイエスが十字架につけられたその場所は、町の近くにあったからである。それはヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。それでユダヤ人の祭司長たちはピラトに言い始めた、「ユダヤ人たちの王」とは書かないでください。むしろ『あの男が「私はユダヤ人たちの王である」と言った』と〈書いてください〉」。ピラトは答えた、「私が書いたものは、書いたものだ」。』 とあります。 ピラトのイエスの釈放策は失敗に終わりましたが、ユダヤ人らに対し、「私が書いたものは、書いたものだ」とつっぱねました。十字架上のイエスは、人類の贖いの燔祭となり、罪ある人類の罪を赦し神と和解させて救い、キリストを通し天国へ導く道を作りました。この高札は、イエスはユダヤ人たちや私たちの霊的生命と愛の生命を与える霊的な王であり、神の独り子だということの象徴にもなりました。


  原文訳で、『イエスは母と彼が愛していた傍らに立っている弟子とを見て、母に言う、「婦人よ、見よ、あなたの息子」。それからその弟子に言う、「見よ、君のお母さん」。その時から、その弟子は彼女(母マリア)を自分のところに引き取った。』とあります。 イエスは、神のみ旨に服従した後に、その上で、十字架上に釘付けられ苦しみの中にも愛する子供を失う母を顧み給いました。母をその愛する弟子ヨハネに託しました。 普通の人間だとしたら極刑の十字架刑で釘付けられたら他の人を愛し気遣うことなど到底できないはずなのに、主キリストの深い慈愛を感じました。


  原文訳で、『このことの後、イエスはすでにすべてのことが全うされたことを識ったので言う、「我渇く」と。聖句が成就するため〈である〉。酸いぶどう酒で満たされた器が置いてあった。それで彼らは、その酸いぶどう酒をいっぱいに含んだ海綿をヒソプに巻きつけて、彼(イエス)の口に差し出した。酸いぶどう酒を受けたとき、イエスは言った、「全うされた」と、そして首を垂れて霊を委ねた。』


  罪なき、聖き神の子イエスは、神のみ旨に従い、地上での神の福音の伝道を成し、十字架にかかり、人類の贖いの燔祭となり、地上での神のみ旨を成し遂げた上で、「全うされた」と言われ、そして首を垂れて霊を天の父なる神に委ねられました。地上での神の愛の福音のための戦いをされて、神のみ旨に従い十字架にかかり、神のみ旨を成し遂げられたことは、十字架は敗北ではなく、神の勝利だと感じました。そしてイエス様が「全うされた」と言われたメシアとしての自覚とイエス様の大きな神の子としての愛と深いみ旨の成就への主の喜びを何となく感じられとても深く感動しました。


  「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ伝10章28節)という聖句の箇所がありますが、イエス様は、自分が殺されても、人類の救い贖いを成し遂げ、天に昇って、全能の父である神の右の座に着かれたということ、このことはここの成句を説明しているとも感じられました。ここでもあるように、私たちキリスト者にとって、キリストを信じることは、私たちの大きな救いであります。キリストを信じることにより私たちはどんなこと、いや何もすべての事に対して、たとえ体を殺されても、もっと大切な魂は神に救われ、主キリスト様が多くの困難やわざわいから私たちを守り、主を信じる私たちには何にも全く恐れることはないと信じられ、キリスト様のご愛と恵みを感じました。


主キリスト様の救いのご愛と恵みに感謝いたします。


(参考文献:ギリシャ語原文訳について 『キリスト聖書塾 ギリシャ語聖書対訳テキスト「ヨハネ福音書2」』)


   





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