2021年5月6日
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
(新共同訳 ヨハネ伝12章1~8節)
原文訳で読むと『そこでイエスは言った、「彼女のなすがままにさせよ。私の埋葬の日のためにそれ(香油)を取っておくため《だ》。貧しい人々はいつもあなたたちと共に居るが、私はいつもあなたたちと共に居るわけではないのだから」。』
マリアのイエスに対する崇敬と親愛は、彼女をしてその最も貴重なる宝を彼にささげしめました。ナルドの香油1リトラをまずイエスの頭に塗り、全身全霊をもって崇めんとして遂にその御足にこれを塗りました。
1 デナリオンは労働者 1 日分の賃金ですから、仮に 1 万円とする と、300 万円にもなります。
ユダヤでは頭髪を解く事は婦人の恥辱と考えられておりました。マリヤはこれによりて飽くまでもイエスの御前に己を卑くしたのであります。普通私たちは自分が行なった善行を神の前に持ち出したくなるかもしれないとも思いましたがマリアに見倣わなければと感じました。
マリアが主イエスの葬りのためにこれを注いだという事は、マリア自身がキリストの死を明らかに意識していたというよりも、この場合は、潜在意識の中にかかるものを覚ったものの様です。
このマリアの奉仕は、一回にかけた奉仕だと感じました。
私は、誰でも、普通自分の大切のものとそうでない部分を分けて、出来るだけ大切なものは自分のそばに大切にして自分の宝と決めて誰にも渡さなく、渡したりあげたりするものは自分にとってそんなには大切でないと普通は思えるものではないかと感じました。愛する人へでもとても高価な宝を惜しまずに捧げることはなかなか出来ないのではと感じました。
しかしマリアは、自分の一番ともいうべき宝をキリストの葬りのために、キリストのためにこの時にかけてささげられることが出来たことは本当に人間にとって幸せなことだと感じました。
そして自分のために成すことは誰でもすると思いますが、マリアは、何よりも愛する神の子キリストのために、ここはと言う時に、とても大切なものを神の前において神の子イエスに捧げました。普通あるいは、人生において、ここはという時に心から愛する人に対して、一回にかけた奉仕を誰でもがしたいと願う場合もあるのではないでしょうか。しかし、最高のものをささげることにおいて、自分の所有欲やもったいないのではという感情に邪魔されて愛する者へ捧げる時を逃してしまいがちではないでしょうか。
愛するキリストに対し自分を卑くしてささげられたこのマリアの一回にかけた奉仕を見倣いたいと感じました。
(参考文献:ギリシャ語原文訳について 『キリスト聖書塾 ギリシャ語聖書対訳テキスト「ヨハネ福音書2」』)