2018年7月1日
だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日の事は明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
(マタイ伝6章31~34節 新共同訳)
現在は、日本の国の政策で、優先されることに経済発展が大切であり、最重要課題である等と聞きます。確かに、国の経済を豊かにする政策は、国民が富み、美味しいものを食べ、いい服を着、いい住まいを得ることは人の幸せにもなり良いことでありましょう。しかし、国民がもっと神の信仰を大切にして、その上で経済政策を重んじるという国は思い描けないのでしょうか。ところで、キリスト様は、ここで人が真に豊かになる為の奥義を述べていらっしゃいます。
ここで、神の国と神の義とは何でしょうか?神の国とは神の支配のことであります。つまり、キリストを私達にとって主なる神であると信じ、主なる神に従う事です。神の義とは、何でしょう。神のご性質の事。つまり、神の子キリストの純真な信仰の愛のご性質を魂から学び、受け入れ深く求めることでしょう。普通人間の両親が子供をいつくしみ愛し育てる様に、キリストをまことに信じ、主の愛のご性質を求め学ぶことによりキリストに密接につながりキリストを木にたとえるとキリストの木につながり私たちはその木の枝であり、キリストの生命の樹液が木からその枝に流れて、それを受けた私たちは、キリストよりの信仰が芽生え、育ち、成長します。それと共に「まず神の国と神の義を求めよ。そうすればこれらのもの(日常の糧)はみな加えて与えられる。」とあるように、それに加えて日常の糧というか、この世を生きる生活力も恵みで与えられるというのでしょう。
ところで、この地上で生きていくためには生活費を稼ぎ、食物や服などを求める必要があります。普通人間は生きるためにまず日常の糧を求め、それを得る方法に興味をもち普通の人はそれを第一に考えるかもしれません。しかしキリスト様が言われておられるのは、まず生きるために日常の糧を求めることを第一とするな。神を信じて神の支配と神のご性質を第一に求めなさい。そうすれば、食う、飲む、着るなどの日常の糧はそれに加えて与えられると言われます。つまり求める順番などが違うのです。ここが、キリストの言われる信仰と日常の糧のポイントです。
神を信じ、神を第一にして生きれば、神はキリスト者に必要な糧を、つまりその人への生きるための仕事等を与えられると言われます。人は生きるために金を得る方法を求めることにこだわって生きるのではなく、キリストの神を信じ、神を第一にして生きよ。さらば、神がその生き方をしている人のその行為に加え、日常の糧を得る方法を与えようと言われております。
また「だから明日のために思い悩むな。なぜなら明日が自分のことを思い煩うからである。その日のわざわいはその日で十分である。」(マタイ伝6章34節原文訳)
このようにマタイ伝に書いてあります。このヵ所を私の師は、「明日のために思い煩うな。なぜなら明日が自分のことを思い煩うからである。」と原文で訳されて、明日を擬人法の様に使い、ここは表していると教えてくださりました。自分が明日の事をあれこれ悩まなくても「明日が自分のことを思い煩う」のだから、神に祈り、神に全託して神の備えを受け入れて歩めば最善の道に歩めると教えて下さり、私もその通りだと信じました。
日本の国は、政治と宗教の政教分離にのっとり国を治めております。確かに戦前の日本の失敗からそれは大切だと思います。しかし、西欧諸国、イギリス、アメリカなどのキリストの信仰を国民の多くが信じる国があります。第二次世界大戦もアメリカ、イギリスもキリスト教国でしたが戦争に勝利しました。生けるキリストを信じるキリスト者の私は、神の独り子慈愛のキリストの神を第一にしたこの日常生活の教えこそ不変の神の法則であるのではないかと信じます。
出来るかは分かりませんが戦前の反省と共に現代に必要であるかの憲法の改正などの問題もあるかも知れません。日本国も宗教系私立学校には宗教の科目もある様ですが、子供たちに学校にもっと宗教について学ぶ宗教の学習科目を作り、まことの愛について考える時間を作ることなどの重要性などのための賛否について国民がいい意味で議論すべきではないかとも思いました。経済改革優先の国の政策ももちろん大切と思いますが、私はキリスト者としてキリスト様が言われる聖書の神のご性質を大切に学び、神様の導かれる中に、信仰と日常の糧の教えなどにおいても、キリスト様の言われる奥義の言葉を大切にして、信仰と人生を神と共に歩むことには本当に大切な意義があるのではと信じ、感じました。私は、今後もキリスト者としてキリストを信じ、信仰の手本である聖書を学んでいきたい、キリストの信仰生活の実践を成していきたいと思います。