2022年11月10日
『子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。』
(新共同訳 エペソ書6章1~24節)
ありがとうございました。今回でエペソ書の最終章です。
『子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。』とあります。
子供と親についての関係についてです。子供はただ無条件に親に従うというよりも、主にありて、両親に従いなさいとあります。ここは、生けるキリストの愛の福音の神のご性質の中にあり両親に従いなさいと言っているように感じました。ここはモーセの十戒にもある箇所より、父と母を敬いなさい。との言葉も教えておられます。すると、地上で長く生きられるとともに、あなたが幸福になれると言われております。
続いて父親たちに『父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。』と言われます。
ここでも肉の親の感情のままや上からの脅迫や上下関係で言われているのではなく、もし主が神の愛で子供をしつけ諭すような場合における、主の中において、子供にかかわり、諭し、育てなさいとあります。
キリスト者は何においても神の中に生き行動することが大切なのだと感じました。
『奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。』とあります。
世界の歴史にはいろんな時代がありました。奴隷と主人の関係についてです。当時奴隷制度があり、パウロは当時の奴隷制度に対して、その時代に合う主の信仰をとり、これを賞揚もせず反対もせずにあるがままの状態で肯定していました。パウロは既にかかる社会状態が永続している以上、その秩序をそのまま受けて、その中に、それ以上の信仰の生命を植付けんとしました。
ここでも主人が奴隷に対して、脅迫や上下関係、脅しなどではなく、主人も奴隷も愛なるキリストの神様がどちらも同じように分け隔てなく愛されることを示しました。主キリスト様が言われたマタイ伝22章の最も重要な掟の中の一つの『隣人を自分の様に愛しなさい』。の言葉の内容に類したことだとも感じました。
また、奴隷たちに主人に対し従えと言われることについて、奴隷が主人に対して、うわべだけでするのではなく、キリストに従うように、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい、とあります。しかし、もし自分がこの時代の奴隷の子に生まれたらどんなに苦しんだだろうかとも感じました。だがキリスト者パウロは、どんな不遇な苦しい環境であっても自分の外側でなく、自分の内側に神の平安をもつ自己の内側の改革を教え、どんな場合でも神の子としての平安や小さな喜びを見つけられる幸せを、人間の内なる革命を教えたのだと感じました。
『最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。』とあります。
『最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。』とありますが、文語訳では、
『終わりに言わん、汝らの主にありてその大能の勢威(いきおい)に頼りて強かれ』とあります。この個所の「その大能の勢威(いきおい)に頼りて強かれ」という訳がぴったりだと感じました。
信仰において大切な点は、聖霊の生命により自分自身が強くされることだと信じます。それによりいろいろなことが出来るようになれるのだと感じました。
『わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。』とあります。私たちの戦いは、人間に対しての戦いではなく、強力な悪の諸霊の軍勢の相手に対しての戦いであります。
『悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。』とありますが、神の武具の武具はギリシャ語原文で(パノパリア 武具ひと揃い、武具一式)という意味で、強大な力を持つ悪魔の策力に対して、人間の力や人間も武具では対抗できない事に対して、対抗するために、キリストの大能の勢威(いきおい)に頼りて強くせられ、その上に神の全部具をもって武装することだとあります。
『立って、真理を帯として腰に締め、』とありますが、この真理は(アレセイア まこと)です。信仰にとって大切なことは、何が本物か偽物かを見抜く力を持つことです。
『なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。』とあります。
そして生けるキリストの信仰を盾にせよ。キリストの信仰は、神のご支配と神の愛のご性質がともない、大切であります。
『また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。』とあります。救いの兜をかぶることにより、キリストによる救いを頭部にかかげて、頭部を保護し、我らに永生を得しむることがなされます。神の言葉は、主キリストが荒野での試みであったように、悪魔に勝つ神の力でありました。神の言葉は、霊の剣であり、両刃の剣よりも利く敵を刺し殺すことができます。この二つの武器を神より受けるといいことです。
『どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。』とあります。
『どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。』とありますが、 私達は見える地上にあるものは自分で確認が出来ますので信じられますが、主キリストの神様は、昇天して天国に行かれ現在は私たちの目では確認が出来ません。また基本的には、天国も普通は誰も見たものがおらずに目に見えないものであります。しかし、主キリスト様は、その地上でいた肉体のままで天国へ昇天されて、私たちは主様と霊により交流し、主に祈り、主様と霊のつながりで祈りを通してつながっております。
私たちは主の霊に助けられて願いを祈り、主の御心にかなうものは、成ります。
そして私たちは自分だけでなくすべての聖なる者たちのためにも祈りたいと願います。そして、聖霊が与えられると異言が恵まれる人もおります。異言で祈り、もしかして熱中してぼおっとして祈りが分からなくなるのではなく、すべての聖なるものたちのために絶えず目を覚まして根気よく祈り続けることもしたいと願います。
『また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。』とありますが、福音の神秘を大胆に示すことが出来るように、と言われております。この福音を説くときに大胆に福音に生きる姿勢は大切であると感じました。
『わたしはこの福音の使者として鎖につながれています』とありますが、パウロは、福音の大使たる自覚がありました。牢獄につながれても恐れずに、パウロの様に福音の大使の自覚が持てることについて、キリスト者は、どんなときにもこのパウロの様な自覚が持てることが出来れば幸せであり、パウロに学び、倣いたいと感じました。
『わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。』とあります。
最後は、結びの言葉です。パウロは、信徒に対して励ましの言葉を送りました。
そして祝福の祈祷をしております。キリスト者にとって大切な主キリストからの賜物である「平安」「愛」「恵み」を祈られました。
キリスト者として信仰をしつつこれらの賜物を主に感謝しつつ私たちも歩んで行きたいと願います。
主キリスト様における上での従うこととは、苦しみなどではなく、自己のあらゆる拘束からの神における自由への開放であり、神の愛に導かれることだと感じました。
主キリストの恵みに感謝いたします。