2022年7月14日
『そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、パプテスマは一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
そこで、
「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、
人々に賜物を分け与えられた」
と言われています。
「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。』
(新共同訳 エペソ書4章1~16節)
「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」とあります。
パウロは、牢獄につながれている自分を主の囚人といい、その様な自分を誇っています。普通の人だとしたら牢獄に囚われて囚人となると、その運命に苦しみ、主に疑問を持つかもしれませんが、パウロはキリストの伝道をして、牢獄の囚われの身となった自分を主の囚人として誇っていました。パウロは主のために生き、どんな苦労も乗り越えて、生き、そこに幸せを感じていたのだと思います。パウロの信仰は素晴らしいと感じました。
そして、私たちは神から招かれたのですから、招きにふさわしく歩み、主に対しては、心から信じ、従順に、素直な幼子のような心で歩むことを勧められたのだと感じました。
「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、パプテスマは一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」とあります。
私たちには肉の愛ではなく神の愛、聖霊による愛を主にまことに祈り求めることにより与えられます。そして主の愛は互いに愛し合うことを喜びとして成す力があります。
互いに愛し合う事には、相手を受け入れる場合や与えられた役目を成す場合などに主の愛により互いに忍耐をし、愛の平安の生命を受け、主の霊による一致がなることを努め願い歩むことは大切だと感じます。
生けるキリストよりの愛の御霊は、主キリスト様より来たり、主はブドウの木であり、私たちはその木の枝であり、私たちその枝は、主にある同じ体であり、主より同じ霊を受けており、体は一つ、霊は一つです。
「主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ」とある様に、主キリストも、信仰も、バプテスマも主の聖霊の生命の中に一つであると感じました。
「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」天の父なる神は主を信じるすべてのものの父であり、唯一の神であり、全宇宙の中の全被造物の上にあり、その中にある恵みと祝福を与え、主を信じるすべてのものの内におられる神だと信じます。
「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」とある様に、私たちは、キリストを信じる信仰の心からのあつき熱心さにより、主より御心の時に願いがかない恵みが与えられます。
私も主に対して、一心に祈り、主の恵みにより多くの願いがかなえられました。主に感謝をしております。
「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」とあります。
ある団体が形成されていくと、たとえば、どこでも会社で言うと社長、部長などの階級の様なものが出来て組織化されていく様です。初代教会、原始福音時代のまことの福音においては、主キリストは組織ではなく有機体というか、聖霊の御霊でつながるそれぞれの主と僕の関係、有機体的な集団であると学びました。そのために組織化されるとキリストの生命は消えていったというようですが、有機体の集団では聖霊の愛の生命を受けて各々が必要な役目を果たしたので喜びの奉仕が出来て、主の生命が生き生きとしているという様です。生けるキリストのエクレシア、集団は有機体的な集団が見本になるのだと感じました。
「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」
「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」とあります。
私たちは未熟な幼児の信仰から成熟した成人の信仰をめざし、それは、幼子のような純真さ、純情さ、素直さを捨てるという事ではなく、キリストの愛の生命のご性質の上でキリストの愛に少しでも近づく事を目指すことで、キリストの神を愛し、主の兄弟を主の愛の生命を受けて、自分を捨てて、互いに愛し合う信仰の成長だと信じます。私たちの目指す目標は、愛なる頭なるキリストを目指し、目標としてキリストに向かって成長を主に願い、歩んでいくことだと信じ、感じました。
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」とあります。
キリスト者は、主を愛し、信じ、主に祈り聖霊による愛を頂き、主の兄弟を互いに愛し合い、各々の持ち場で主のお役に立つ役目を目指し、たとえば、悩める兄弟のために主にとりなして祈ることなどをして、主の中に自覚を持ち折り目を正して歩むことを成していきたいと信じ願います。
主の恵みが主を信じる多くの人に与えられることをお祈りします。
アーメン。