2022年10月10日
『キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。』
(新共同訳 エペソ書5章2節~28節)
『キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。』とあります。
主キリスト様は、十字架にかかり、私たちの罪を贖い、神と私たちを和解させてくださいました。キリスト様の十字架により、御身を贖いのご燔祭として神の前にささげ、神様の前にどんなにか、かぐわしい香りを上げられたように、私たちも出来るだけ主キリストに倣い互いに愛し合い歩みたいと思います。
人間は、みだらなことや汚れたことや貪欲なことなどこの世のことに興味のある人は多いと感じますが、キリストを信じて聖霊の愛の生命を受けると、その様な生まれながらの肉性よりも、神の聖なる愛の生命による香しい生命に満たされて生きることのまことの喜び、価値を感じるようになります。そして神様が私たち自身を贖い聖別して恵んでくださることへの感謝がわきます。肉的な人生を歩むよりも神様と恵みの人生を歩む喜びがわき、今までの肉的な歩みから聖別された歩みに今後も生きたいと願うようになります。
『あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。』とあります。
主キリストは、天からいつも御手を広げて愛の生命と主の光を全被造物へ向けて流されておられます。私たちは以前主を識らなかった時には暗黒の肉の人生を歩んでおりましたが主を信じてから、主キリスト様の生命の光を受けて、その光に満たされた神の光の子となりました。
主の光は、あらゆる善意と正義と真実が含まれた光で、私たちは主の生命と光を受けて、主の愛の中に生きられるようになります。
『実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。』とあります。
私たちは、闇の中の肉性の自分でいた時には、光より闇に生きていたかもしれません。しかし、主キリストを信じて光の子となりますと、出来るだけ光に行き、光にさらされ、光の中で生きたいと願う様になると信じます。そして主の愛の生命とその主の光の中で生きられることの幸せを感じるようになると信じます。
『それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。』とあります。
この箇所は、ある学者によると、当時の讃美歌からの引用ではないかなどと言われてます。この世の肉性の享楽の生活の自分の眠りから目覚めて、起きよ、肉に死んできた自分から主の光を受けて主の霊的な生命に生かされて立ち上がれ。そして主の愛と恵みの人生を生きよと示されるように感じます。この神の子の自分に主の知恵を頂いて、日々を大切にし、この悪い時代に主による賢さで神の子として、主に御心を悟りつついろいろな問題に際して細かく気を配り対応をして歩みなさいと言われているように感じました。
過去の肉性のある自分の行いはもう消えることはありません。過去の自分をとがめるよりも、現在から今後に向かい今こそキリストの火に燃えて生きたいと願います。
『酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。』とあります。
この世ではお酒を飲む人は多いと思います。この「酒に酔いしれる」は「酔う メテユスコー」は原文の意味として「悪酔いする、泥酔する」という意味で、「酒に泥酔するな」という訳になります。
酒に泥酔すると分けも分からなくなり身を持ちくずすことにもなりかねません。それよりも生けるキリストの聖霊の愛の生命を求めて、受けて、私たちはむしろ御霊に酔う事が大切です。御霊ならいくら酔っても酔い過ぎることはなく、恵みと祝福がともないます。
わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝をし、キリストに対する畏れをもって、互いに兄弟が主に仕え合う事の重要性を感じました。
『妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。』とあります。
現代は、男女同権と言われております。「教会がキリストに仕えるように」は、原文では、仕えるは「従う、服従する」で「教会がキリストに従うように」です。キリストは教会の頭ですが、主キリスト様が天の父なる神様に絶対の信頼を持ち、「従う、服従する」のと同じことの様です。
それと同じく「妻もすべての事において夫に服すべきである」と記載されております。ところで、もちろんキリスト者は自分の努力で相手を愛す事は限界があり、主に祈り聖霊の愛の生命を受けて相手を愛することは大切だと信じます。現代では、妻が夫に従うなどというと、人権侵害だとか憲法違反だなどと言う人もいる様です。しかし、聖書にある信仰としてはこの様に書かれております。
そしてそれは妻だけに言っているのではありません。
「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」
「夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。」
とあるように、聖書では、「妻はすべてのことにおいて夫に服すべきである。夫も、自分の体の様に妻を愛さなくてはなりません。」とあり、条件付きではなく絶対の服従の様です。ところで極端に言うと現代のドメスティックバイオレンスのような、夫が妻を従わせて暴力で従わせることのような意味のことでは全くなく、そういうことの内容を正当化していることの意味していることとは違うと感じます。
妻はすべて夫に服すべきであり、それと共に夫も妻をないがしろにせずに、夫も自分の体の様に妻を愛しなさいと言われております。
自分の体を普通の人は大切にして愛します。それと同じように夫は妻を愛しなさいとあります。
他の箇所に、夫婦が結ばれ一つとなるのは、キリストと(教会)エクレシアの関係と同じく聖なることで大切なこととあります。
聖書では「主キリストが天の父なる神を愛し、従順に従い」、キリストの愛の行いを全うされて全人類を父なる神と和解する道を開き、父なる神の右に上った関係の様に、キリストはエクレシアの頭の関係で「教会がキリストに従うように」とあるように、キリストとエクレシアの関係になぞられる、エクレシアの一員のキリスト者である妻と夫の関係も「妻はすべてのことにおいて夫に服すべきである。夫も、自分の体の様に妻を愛さなくてはなりません。」とあります。
聖書は信仰の手本でありますが、聖書で言う妻と夫の関係についても、現代人は受け入れがたい人もいると感じますが、キリストの神の国と神の御性質の霊的な愛の意味からいうと大切な真理が隠されていると信じます。
ジェンダーや同性婚などが世界でも認識されて認められる社会となってきました。
聖書では、主キリスト様の言葉で、福音を伝えるのに相手の状況に合わせて、自分もその相手と同じ立場に立って福音を伝えよという様な黄金律と呼ばれる箇所があります。『だから人々が自分たちに行なって欲しいと、君たちが欲することはすべて、君たちもまたそのように彼らに行なえ、なぜならこれこそ律法である、そして預言書《である》からである。』(マタイ伝7章12節 ギリシャ語原文訳)。
性的マイノリティでこころとからだの性の不一致(トランスジェンダー)があります。もし生まれながらに性が不一致などの人にそれは間違いだということはその本人の立場に立っていない事とも言え、この場合、聖書でいうその相手と同じ立場に立って福音を伝えよという点からもその本人を受け入れた方がいいと感じました。弱い立場にある人へなど相手の立場に立ち福音を伝えることは大切だと信じます。
しかし、聖書の意味においても、もし本人が普通の人と同じ様なのにもかかわらず、たとえば自分でどんなに努力しても出来ない無理な性質のものでないものの場合で、あえて普通ではない自分の遊び心などや自分自らの不義などで、同性愛などや姦淫を行なおうとすることは出来るだけ避けた方がいいのではと感じました。聖書でもある様に、主なるキリストの神様は本来の聖なる神様の純粋な愛、人間に対する深いまことの慈愛を成される方です。聖書はキリストの信仰の手本の書であり、出来るだけ守ることが大切だと信じます。
キリストの神様を信じ、聖なる生命の中で、神に聖なる畏れを感じて生きられることは幸せなことだと感じました。
主キリスト様よりの恵みと祝福のあることをお祈りいたします。
アーメン。
(参考文献:ギリシャ語聖書対訳テキストマタイ伝1)