2024年04月11日
『パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、
『我らは神の中に生き、動き、存在する』
『我らもその子孫である』と、
言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。
』
(新共同訳 使徒言行録17章16~34)
ギリシャ語原文訳で
『さてアテネでパウロが彼らを待っている間に、彼の霊が彼の中で苛立っていた、偶像に満ちている町を観ていたので。それで一方で、彼はシナゴーグ(会堂)でユダヤ人たちや敬虔な人たちと論じ合っていた、また市場では毎日居合わせた人たちに向かって《論じ合っていた》。他方では、エピクロス派とストア派の哲学者たちの幾人かは、彼(パウロ)と言い争っていた。そしてある者たちが言いはじめた、この軽薄なお喋り屋は何を言う事を欲しているか」。また或る者たちは「彼は異国の神々の宣伝者のように思われる」と。なぜなら、彼はイエスと復活を喜んで伝えていたからである。彼らは彼をつかまえて、アレオパゴスに連れて行った。
《こう》言いながら「私たちは知ることができるでしょうか、あなたによって語られている新しいこの教えが何であるかを。なぜなら、珍しい何かをあなたはわたしたちの耳に運び込んでいる。それで私たちは知りたいと願っている、これらが何であることを欲するのかを」。さてすべてのアテネの人たちと滞在している外国人たちは、別に何一つ暇を持っていなかった、何かを言ったり、より新しい何かを聞くこと以外には。』
アテネでパウロが彼らを待っている間という文の彼らとは、
この前の部分で、パウロがテサロニケの会堂で主の教えを説いていて、ある者は信じ、多くのギリシャ人や主だった婦人たちが従ったのをユダヤ人たちがねたみ暴動を起こし、べレアでも群衆を扇動し騒がせた。兄弟たちはただちにパウロを送り出して海岸の地方へ行かせたがシラスとテモテはべレアに残った。その二人をアテネでパウロが待っていました。
アテネの町でパウロは、偶像で満ちているのを見て、彼の霊が苛立ちました。旧約時代から神様は、手で作った神のかたちの様なものを嫌い、偶像崇拝をしないように求めました。人間が手で作った神の像には、神は住み給いません。キリストの神は、神の霊であり、私たちが祈り拝むのは、今も生きておられる生けるキリストの神様ご自身の霊にであります。
パウロの彼の霊は、アテネの町で見た偶像に苛立ち、異物のものに違和感を感じました。
アテネでは、ギリシャ人達は、市場などで論議をたたかわせる様な事が普通に行われている町で、パウロも彼らの中に入り論じ合っていました。
『この軽薄なお喋り屋は何を言う事を欲しているか」。また或る者たちは「彼は異国の神々の宣伝者のように思われる」と。なぜなら、彼はイエスと復活を喜んで伝えていたからである。』とあり、パウロの語ることを他人事の様に聞いて、ただ興味本位で聞いている様でした。
『「私たちは知ることができるでしょうか、あなたによって語られている新しいこの教えが何であるかを。なぜなら、珍しい何かをあなたはわたしたちの耳に運び込んでいる。それで私たちは知りたいと願っている、これらが何であることを欲するのかを」。』という様に、彼らは、興味本位で聞きたいと思い、神への信仰から聞こうとはしていませんでした。
ギリシャ語原文訳で
『それでパウロはアレオパゴスび真ん中に立って言った、「アテネの男たちよ、あらゆる点で神々をより恐れている人たちとして、私はあなたたちを観ている。なぜなら巡り歩きながら、またあなたたちの拝むものをよく観察していると、『知られていない神に』と刻まれている祭壇をも見い出した。それであなたたちが知らないままで拝んでいるもの、これをこの私があなたたちに告げ知らせている。神は世界とその中にあるすべてのものを造った方であり、この方は天と地の主であるから、手で造られた神殿の中には住まない。また人々の手によって奉仕されることもない、何かの必要があって。彼自身(神)がすべてに生命と息と一切を与えているのだから。また一人から人間のあらゆる民族を造った、地の全面の上に住まわせるために、定められた季節と彼らの住まいの境界を区切って。《あらゆる民族が》神を探し求めるために。それで本当に彼らが彼(神)を手探りし、そして見出すことができはしないかと、すなわち本当に私たちの一人ひとりから遠くなく存在している方(神)を《探し求めるために》。」』
パウロはアテネを見て回り、前もって福音を伝えるためのものを探し、よく観察していると、『知られていない神に』と刻まれている祭壇である気になるものを見つけました。この知られていない神にという文字を引用して、それであなたたちが知らないままで拝んでいるものに結びつけてキリストの神の福音を説きました。アテネの人たちが興味の沸きそうな題材を探してそれに関連を付けて福音を説くのはさすがだと感じました。
ギリシャ語原文訳で
『確かに彼(神)の中に私たちは生きている、そして動かされている、そして存在している。あなたたちの中の詩人たちの幾人かも言っているように、『確かに私たちも彼の子孫である』。だから私たちは神の子孫であるので、金や銀や石に人間の技巧と思考で刻んだものと神なるものは似ていると思うべきでない。確かに、無知の時期を神は大目に見たが、今やすべての者たちがどこでも回心することを人々に命じている。彼(神)が定めた《一人の》男によって、義を以て世界を裁こうとする日を彼(神)が据えたからです。
《神は》すべての者たちに信仰を与えて、彼(一人の男)を死人たちの中から蘇らせて」。しかし死人たちの復活を聞いたとき、一方で或る者たちはあざ笑い始めた。他方では或る者たちは《こう》言った、「あなたから聞こう、このことについては、また改めて」。こうしてパウロは彼らの真ん中から出て行った。しかし幾人かの男たちは彼にくっついて行って信じた。彼らの中にはアレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという名の婦人と彼らと一緒に別の人たちが《居た》。』
福音は、福音を聞くその人たちに合わせて説くことが大切だとも聞きます。教師は教師なりに、スポーツマンにはスポーツマンなりに、ギリシャ人はギリシャ人なりにと。
しかし、哲学とその議論にたけたギリシャ人にあわせて人間の英知や力に合わせ、言葉と知恵の優れた事を用いて福音の説教をしたパウロは、このギリシャでの伝道は失敗に終わりました。人間の優れた能力や力において説くことではなく、キリストの聖霊の生命と主の贖いの愛を説くことが大切だと感じました。そこでパウロはその後コリントでは、イエスキリスト及びその十字架に釘づけられて贖いの血潮を流しつつあるキリストのみを伝えました。
人間の知恵の究極は神の知恵にあると思われ、神の本質は神の御性質にあると感じます。
人間の利の追求と権力欲の力は、人々に争いと戦争を起こし、キリストの神の十字架の御血の贖いの愛は、兄弟や社会に平和と祝福を与えます。キリストの神を純粋に信じる者には、主は恵みと祝福に満たされます。
神の愛の力は、信じる者を救い、その人の為の力を与え、絶望を希望に変え、我が願いについて御名による祈りにおいてそれを御心ならかなえてくださり、何もないところに恵みと祝福を望ませてくださります。
『しかし幾人かの男たちは彼にくっついて行って信じた。彼らの中にはアレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという名の婦人と彼らと一緒に別の人たちが《居た》。』とありますが、
福音伝道の中に、聞いても求めず、多くの者は避けて通る者も多い様です。しかし、その中に信仰を熱心に求める少数の者もおります。神は、多くの中からも少数のまことに心から求める者を探して愛されその者を恵まれます。
私たちに必要なものは、人間の知恵や力もさることながら、この箇所にある様に、主キリストを信じ、キリストの十字架の贖いの御血潮をくみ、たとえ多くの者の内の少数でもいいのでまことのキリストを信じる者であることです。私たちもまことの愛と恵みを見出すこの少数の者の中に入りとうございます。
キリストの愛に生き、兄弟互いに愛し合う歩みをする者でありたいと願います。
あなたにキリストの愛と祝福がありますよう祈ります。
(参考文献:ギリシャ語聖書対訳テキスト使徒行伝2(改訂版))